第10話
鞘へ一振りの刀が納められた。手入れが済んだそれを掴む大きな手は、やがて部屋へ置かれた刀掛台へ真剣を預ける。刀掛台へ銃砲刀剣類登録証も添えられている点も確認した男──風間拓海は続けて手入れ道具を手早く片付けてしまう。
自室の所定の位置へ道具を仕舞った彼の視線が不意に本棚へ向かう。何十冊の──書籍のジャンルは様々だ。戦史を始めとした歴史関連の研究書、安全保障に関連した書籍と彼の現在の仕事を色濃く反映した類が大半を占める本棚だが、その一角に何冊かの少しばかり不釣り合いとも言うべき本が仕舞われている。
古事記、そして日本書紀に関係する書籍だ。その内の一冊を彼は指先で引っ掛けて抜き取った。
その一冊を携えつつ、拓海は纏った和服の襟や帯を整えた。自室の照明器具を消灯するボタンを操作した後、障子を開けて庭園を臨む縁側に足を運ぶ。
そろそろ秋が近い──昼の蝉時雨も悪くはないが、盆も過ぎれば季節は巡る気配を見せる。夜は少しずつ過ごし易い気温と湿度へ包まれるようになった。
縁側を進み、彼が向かったのは邸内の台所だ。時刻は20時を超えたばかり。まだ家政婦の絹子が後片付けや翌日の食事の仕込みをしている頃だろう。
途中、居間の横を通過するとその中では竜也がカタリナを対戦相手にしてテレビゲームに熱中している姿が捉えられた。
彼の父親である風間俊一も対戦相手を務めるようだが、テレビゲームにはあまり縁がないのもあって負け越す場合が多いらしい。戦略シミュレーションのジャンルなら負けないと思うのだが、とは負け犬の弁だろう。
台所では予想通りに絹子が翌朝の食事の仕込みをしていた。顔を覗かせた彼が酒と灰皿を所望すると忙しいにも関わらず家政婦は用意を済ませてくれる。
彼が好む淡麗辛口の日本酒を備前焼の徳利に。猪口も添えて盆の上へ乗せ、それらの傍らには肴のキュウリとカブの浅漬けを。
しかし手際が良い。絹子も彼がこの時間帯へ頼みに来ると分かっていたのだろう。灰皿も盆の上に置き、主人の長男へ渡すと彼は頭を下げる。
「ありがとうございます」
「いいえ。お盆はいつもの場所に置いといて下さいな」
邸宅の主人である風間俊一の妻──風間拓海と風間湊の兄弟の母は既に亡くなっている。次男を出産後、産後の肥立ちが悪く他界してしまった。兄弟は母の記憶が乏しく、絹子の存在が母のそれに近いだろうか。
母代わりであり、随分と長く風間家に仕えてくれた家政婦から所望した品々を受け取った拓海は脇へ本を挟みつつ盆を持って元来た道を戻り始める。
居間の前を通過すると──竜也が快哉をあげている。隣ではカタリナが苦笑いを浮かべていた。どうやら対戦の勝敗は決したらしい。
彼が盆を持って庭園を臨む縁側へ向かう途中で真美子と鉢合わせた。竜也を寝かし付ける準備を終えたようだ。子供は早く寝かせるに限る。成長の為にもだ。
軽く会釈を交わし、拓海は辿り着いた縁側へ腰を下ろして胡座を掻く。
運んで来た盆と本を傍らへ置き、まずは一献。
備前焼の徳利が傾けられ、猪口へ注がれた酒の水面に月の姿が浮かび上がる。今宵は良い月が出ていた。
猪口を乾燥気味の唇へ運び、口に含む。淡麗辛口──その表現の通り、すっきりと澄み、かつ雑味のない風味が口腔へ広がる。
喉仏が動きながら酒が嚥下される。鼻腔から息を抜くと酒の風味がより感じられる気分だ。
箸で小皿に盛られた浅漬けを一切れ摘む。パリッとしたキュウリの歯応えが残り、程良い塩気と酸味で味付けされたそれを咀嚼しつつ彼の手は再び徳利を掴んだ。
猪口に注がれた酒を呷り──やがて拓海は安堵の吐息を漏らす。
次いで彼は纏った和服の袖の中へ片手を突っ込んだ。袂と呼ばれる部分に仕舞っているハイライトのソフトパック、そしてオイルライターを取り出し、拓海は銜えて引き抜いた紙巻き煙草の先端を火で炙る。
紫煙を燻らせ、タール17mg、ニコチン1.4mgが含有されたラム酒の香りを堪能する彼は煙草を銜えたまま自室から持ち出した本を開く。
神代における天地の始まりから推古天皇の時代に至るまでの出来事を始め、神話や伝説などを記載した古事記へ関する研究をざっくりと纏めた書籍だった。
本を拓海は開き、ページを捲っていく。天地開闢のくだりへ辿り着くと彼は一行ずつの文章を丁寧に読み取り、その意味を咀嚼する。
天地開闢。
その後に七代の神の交代。
伊邪那岐、伊邪那美の誕生。
国産み。
伊邪那美の死。
煙草が吸い口の近くまで燃え尽きると、彼はそれを灰皿へ押し潰す。灰皿には既に何本かの吸殻が転がっている。猪口へ注いだ酒を含んでから新たな紙巻き煙草を銜えて火を点ける。伊邪那美の死にも火が絡んでいた。
黄泉の国での伊邪那岐、伊邪那美の再会。続く逃亡。
そして──
「──天照大御神、月読命、須佐之男命の誕生」
「──日本神話、でしょうか?」
この場には拓海しかいないにも関わらず、余人の声が響いた。
背後から掛けられた声は女性らしい高さを含みながら、微かな発音の違和感も感じられる。
肩越しに彼は振り向く。昼間はパンツスーツ姿だが、夜はショートパンツに半袖のシャツを纏うカタリナが4歩ほど先へ立っている。
下ろした金髪を指先で掬い、片耳へ掛けながら拓海へ問う彼女のアイスブルーの瞳は彼の傍らへ向けられる。盆の上へ酒や肴が用意され、灰皿には吸殻が何本も溜まっている。
どうやら憩いの一時を邪魔したらしい。彼女も憩いの一時を邪魔されたばかりか、面倒な仕事を遠回しに命じられた身の上だ。
まずは謝罪を──とカタリナが頭を下げようとする瞬間のこと。
『──正確には古事記だ。神話を含んでいるのは間違いないがね』
彼は英語で彼女の挙動を制したばかりか、自身の傍らを銜え煙草のまま指し示す。隣へ座って構わない、という仕草だ。
感謝を込めた一礼の後、カタリナは彼へ歩み寄り、拓海が示した隣へ脚を崩して腰を下ろす。正座すべきなのだろうが、こればかりはいまだに無理だ。
『......私もそれなりに学習はしましたが、古事記と日本書紀の違いがいまいち分からないままです』
『......大雑把に言ってしまえば、古事記は国内向けの書物だ。天皇家の系譜や神話の物語を伝える為の書物という解釈で構わない。一方の日本書紀については漢文で書かれていることから国外向け──特に当時の中国へ向けた宣伝を目的にした書物の解釈が適当だろう』
『なるほど。......そちら、一杯頂いても?』
文化的な方面にも拓海はそれなりに造詣はあるらしい。それを窺いつつカタリナの視線は彼の傍らへ向けられる。盆の上へ乗った徳利と猪口だ。
『......私が口を付けているが......』
『お構いなく。回し飲みぐらいしますので』
『......それは、まぁそうか』
そこまで潔癖症ではない、と言外に告げられては拓海も断る理由はない。とはいえ、彼は膝の上へ読みかけの本を置いてから摘み取った猪口の縁を和服の袖で拭った。それをカタリナへ手渡すと、拓海の握った徳利が差し出される。
『──頂戴します』
酌を受けたカタリナが礼を告げ、少し厚めの潤った唇に猪口の縁を付けて一息に淡麗辛口の酒を嚥下する。
彼女が好む銘柄の酒とは異なる赴きや風味だが──悪くはない。どんな料理にでも合う酒、という印象をカタリナは感じつつ乾いた猪口を彼へ返す。
『──ありがとうございました。不調法者ですが、お注ぎさせて頂いても?』
『......そこまで畏まらなくても良い。酒の席ではないからな』
献杯に返杯──伝統的と言えばそれまでだが、日本の酒席に於けるマナーと呼ばれるそれを実践する必要はない。少なくともここはプライベートの空間なのだ。
彼が持つ徳利へ指を添え、受け取ろうとする彼女を軽く諭す拓海ではあるが、酌を受けない理由が存在しないと脳内で弾き出したのだろう。徳利をカタリナへ譲り渡し、彼女が猪口へ注いだ酒を見下ろすとそれを飲み干した。
『......それにしても意外ですね。風間1佐がその手の本に興味があるとは思いませんでした』
『祖国の歴史や成り立ちを知るのは大切だ。まぁ、神話である点は否定しないがね。......紙巻きだが、どうだろう?』
『ありがとうございます。頂きます』
再び彼は猪口を和服の袖で拭い取った後、盆を拾い上げた。カタリナと自身の間へ盆を置き、猪口と徳利も預ける。好きに飲み、肴の浅漬けも食べて構わないという気遣いへ彼女は無言のまま感謝の一礼を向けた直後だ。
拓海が愛煙のソフトパックをカタリナへ差し出す。彼女の好みは葉巻だ。口に合うかは兎も角として、同じ喫煙者として勧めないのも無礼であろう。
その気遣いにも彼女は感謝を示しつつ、細い指先で紙巻き煙草を引き抜いた。少し厚めの唇へ銜えられた煙草を認め、拓海がオイルライターの火を点ける。
先端を炙り──葉巻とは異なり、簡単に火が点いたそれの紫煙を口腔で転がす。彼と彼女は喫煙者だが、嗜み方には差異があった。拓海は肺まで紫煙を入れるが、カタリナは葉巻がそうであるように口腔で転がして粘膜からタールやニコチンを摂取する。
口腔喫煙は俗にフカシとも呼ばれるが、煙草本来の味わい方はこちらが正しい──ともされるようだ。
残暑のやや湿気を帯びた夜の空気の中へ二筋の紫煙が立ち上る。
『──弟さん、湊氏とご連絡はつきましたか?』
『何度かメッセージを送っているが、既読にもならない』
唐突に──しかしカタリナが拓海へ尋ねる言葉は、彼と彼女がこのような関係と相成った原因のひとつでもある。本来ならばプライベートな帰省の時間へ紛れ込んだ不協和音にも等しい存在が彼女だ。無論、カタリナとしても面倒な仕事を任せられているのだが。
弟と連絡がついたか否かを彼女が問うと、拓海は溜め息混じりに紫煙を漏らした。次いで彼の片手が纏う和服の袖の中へ消え、自身の携帯端末を引き抜く。ロックを指紋の生体認証で解除し、液晶画面をタップした彼はメッセージのアプリケーションを開いた。
隠す必要もない、とばかりに彼はカタリナへ携帯端末を手渡す。唇から紙巻き煙草を取り除き、それを灰皿へ預けた彼女の鋭い眼差しが開かれたアプリケーションのルームを注視する。
1時間前、12時間前、そして昨日──と拓海から弟の風間湊へ安否を尋ねるメッセージが送られているが、彼の言葉通り、既読すら付いていない。
『──必要なら他のアプリも調べて構わん』
『......いえ、それには及びません。お返しします』
身の潔白を証明する為に彼は自身の携帯端末を渡したのだろう。おそらくは。
直感でしかないが、この端末へ収められたデータを隅から隅まで漁っても風間湊に関する最新情報は得られるか怪しいところだ。カタリナは拓海へ携帯端末を返し、受け取った彼はそれを再び和服の袖の中に仕舞う。
『......それにしても古い携帯ですね。何年前の物ですか?』
物持ちが良いのか、それとも無精なのか。どちらにも考えられる。或いは仕事の多忙さで機種を変更する寸暇も惜しいのだろうか。
銜え煙草のまま拓海はやや考え込む。袖の中へ仕舞ったばかりの携帯端末へ機種変更したのはいつ頃だったか──。
『......あぁ。護衛艦隊の幕僚部員になる少し前だったか。ちょうど弟と伊勢神宮へ行く前に機種変更した筈だ』
『......伊勢神宮というと......』
彼は膝の上へ置いていた本を拾い上げ、ページを捲り──岩戸隠れのエピソードが描かれた浮世絵が掲載されている箇所へ辿り着いた。
掲載されている浮世絵の構図の中には多くの神々が描かれている。その内の一柱──女性の姿で描かれた神を彼の指先がカタリナへ指し示した。
『──内宮には天照大御神が祀られている。参拝の経験は?』
『いいえ。機会に恵まれず......』
『そうか。なら、機会に恵まれたら参拝することを勧める。とても落ち着く場所だった』
『そうします。......この任務が終わったら、になるでしょうが』
『その時は......外宮、内宮も随分と広いからな。しっかり参拝したいなら3日......いや、4日はスケジュールに余裕を持たせた方が良い。甘い物が好きなら赤福を勧める。ほうじ茶も美味い』
随分と実感の籠もった勧め方だ。実際に足を運んだからこその言葉であろう。
拓海は煙草を指先に挟んで取り除き、灰皿へ溜まった灰を落とした。続けてカタリナは灰皿に預けていた煙草を摘み取った際、彼が広げたままのページへもう一度、視線を移す。
天照大御神──日本神話に於ける最高神とされる一柱、その女神が描かれた浮世絵が彼女の脳裏へ刻まれた。