第13話
懇親会が催される大広間は賑やかだ。その一方、大広間の片隅へ置かれた円卓の周りだけがシンと静まり返っている。
定年退官して早数年の老人──にしては見た目は若々しいが、白髪混じりの老人の鋭い眼差しに気圧された若年層の議員達は緊張のあまり生唾を飲み込む。
文民統制、国民主権を遠回しに強調しつつ──その制約によって現役時代は多かれ少なかれ、運用に支障を来した事実がないとは言い切れない。
しかし、だとしても一種の矜持を持って風間俊一という老将はその制服を脱ぐ最後の日まで服務の宣誓に則って職務を遂行した一点は疑いようのない事実である。
「──まぁまぁ、風間さん。そう意地悪を仰らないで下さい。若い人達ですから、大人の対応をお願いしますよ」
「......いや、失礼しました。少々、熱くなってしまったようです。お恥ずかしいことだ」
安全保障政策を長く担当し、政界へ身を置いていた期間が長いこともあるだろう。初老の議員が取りなせば、風間俊一も目元を緩めてグラスを掴んで何口かビールを嚥下する。
喉元、或いは眼前へ不可視の白刃を突き付けられた気分を味わったのだろう。若年層の議員達は愛想笑いを浮かべながら、取り出したハンカチでそれとなく冷や汗を拭った。
「......防衛力の強化、ひいては自衛隊の強靭化、もしくは国防軍への変化が議論されている点については如何お考えでしょうか?」
「決して悪くはない風潮だとは考えています。防衛力の強化がそのまま軍事国家へ直結すると見なされていた時代よりは余程、良い。選択肢が多く、幅もある。無論、安直に答えを求め過ぎだとは考えておりますが......先程申し上げた通り、これ以上の答えは差し控えさせて頂きます」
明確に答えてはくれないのだろう。ここまでの遣り取りの中で風間俊一という元海将、元海上自衛官の中に超えてはならない一線が引かれているとは彼等も察していた。
であれば──聞き方、もしくは表現を変える必要がある。
「......では一国民として、有権者のお一人としてのご意見を頂戴出来れば幸いです。自衛隊は強ければ強いほど良いとはお考えになりませんか?」
最年少の議員が尋ねる。それを受け取った風間俊一の視線は半端に中身が残っているビール瓶を捉えた。グラスへ手酌でビールを注ぎ、唇を湿らすだけ口へ含んだ。
「先程のお話の繰り返しになってしまいますが、強い自衛隊、戦争に勝てる組織を求めていない、と言えば嘘になります。ただし、手段と目的が変わってはならない」
「と、申しますと?」
「自衛隊が強くなることは、あくまでも日本が独立と平和を守る為に必要な手段でしかありません。当然ですが目的ではない。強さそのものを目的として求めるようになった瞬間、危うくなるのは自明の理です」
自ら手酌でグラスへ注いだビールを彼は今度は大きく傾けた。そろそろ炭酸で腹が膨れてきた。趣向を変えて日本酒に切り替えた方が良さそうだ。
ちょうどビールの瓶も空になった。彼は席を議員達へ譲った後、各々で近場で談笑していた元部下達の内の一人を呼ぶ。
「──済まないが、日本酒を貰ってきてくれ。流石にこの歳でビールばかりは辛くなってきた」
若い頃はビールだけで大瓶を何本も空に出来たものだが、こればかりは歳の影響だろうか。
元上官──護衛艦隊司令官の要望に幕僚を務めた元部下は頷き、会場を忙しなく行き来する給仕の一人へ歩み寄って行く。それを見送った風間俊一は改めて口を開いた。
「──自衛隊という組織が存在する最大の目的は、国民を戦争の惨禍から遠ざけることです。最近では災害派遣での活躍ばかりが取り沙汰されていますが......勿論、活躍を否定するつもりは毛頭ありません。それはご承知下さい。──あぁ、ありがとう」
議員達が頷く中、給仕から受け取ってきた猪口と徳利を彼の元部下が眼前へ静かに差し出す。元部下も昨年に退官したとはいえ、最終階級は海将補なのだが随分と甲斐甲斐しい。
「──抑止力となる組織。戦争に勝つのではなく、戦わずに済ませられる組織。かなりの理想論を申し上げているとは理解していますが、一個人が望むとしたらこれでしょうか」
昨今の分煙の処置は仕方ないにせよ、このような宴席の類で自由に煙草が吸えないのは彼としては不自由さと窮屈さを感じている。シガリロや葉巻をこの場で吸えれば、もう少し脳の回転も良くなるのだ。あくまでも風間俊一の持論に他ならない。
「先程の話に戻りますが......同時に周辺諸国との関係性の強化も疎かにしてはならないと考えています。私は先程、我が国を取り巻く環境を火薬庫と申し上げた。あれが正しい表現なのかは分かりません。少なくとも近い表現ではあるでしょう」
徳利を傾け、猪口へ手酌で澄んだ日本酒を注いだ彼は口元へ運び、淡麗辛口のそれを静かに口腔へ含んだ。銘柄は特に指定しなかったが、悪くはない味だろう。
「──重要なのは、火を点けないことです。更に言えば我が国が直接的な火元にならないこと。そして、万が一何処かで火が点いたとしても、直ぐに消火できる体制や関係性を構築しておく。これも必要でしょう」
偶発的に発生した何かしらが原因で、エスカレーションを繰り返す可能性も否めない。一触即発の事態へ発展し、とうとう戦端が開かれる──その前に公式、非公式に関わらず、交渉で小火程度に抑えられるなら御の字であろう。
「警戒することと敵対することは同じではありませんから」
「仰られる通りだと思います。しかし、そう上手く行くかはまた別の話でもあります」
「その通りです。とはいえ、強硬的な交渉......言うことを聞かせるそれよりも、聞く耳を持たせる、興味を惹かせることの方が大切でしょう。選挙にも似ていると個人的には......まぁ、それについては議員の皆さんの方がお詳しい筈です」
外交や政治の本分は眼前にいる議員達の方が自らよりも専門家であろう──それを口にすると、老若男女の議員は苦笑いを浮かべた。
釣られて風間俊一も僅かに苦笑いを浮かべ──やがて唇を真一文字に結ぶと、改めて議員達へ眼差しを向ける。
「──突然ですが、今度は私からお尋ねしても?」
勿論である。初老の議員が最初に頷き、次いで議員の全員が首肯する。
「──50年後、いや100年後でも構いませんが......50年後の日本という国が、現在と同じ姿をしていると確信を持っている方は、どれほどいらっしゃいますか?」
老将からの問い掛けに──議員達は即答できなかった。
人口の減少、経済に外交、国際情勢、現在も抱えている諸々の問題が解決されているとは言い難い。良し悪しこそあるが、変化は生じているだろう。現在の日本という国家が存続している可能性はどれほどあるだろうか。
「──おそらくですが、現在とは異なる国になっているでしょう」
「......はっきりと、おっしゃいますね」
「事実でしょうし、間違いなくそうなっていると思いますから」
やはりビールよりも日本酒の方が舌に合う。若年の頃はビールばかりだったが、三十路を過ぎた辺りから日本酒の良さに気付けたのは僥倖だろう。
猪口を乾かし、風間俊一は再び徳利を傾ける。
「私は、変化を決して悪いものだとは捉えていません。重要なのは、50年後の子供達が自分達の国をどうするか、自分達で決められることでしょう。清濁併せ呑み、日本という国家が──いや、違うな」
表現が些か宜しくない。日本語が母国語だが、歳を取るとどうにも伝えたいことがいまいちはっきりと言語化が難しくなる傾向でもあるのだろうか。次男の会社で行われる健康診断の結果は悪くはなかった筈だが、果たしてどうなのだろう──などと内心で考えつつ、風間俊一は猪口を唇へ運び、縁に口付けたまま数秒ほど黙り込んだ。
「──我が国が培って来た技術、優秀な人材、水準の高い教育、信用と信頼の元の外交、積み上げてきた歴史に文化、普遍的な価値観、国民の意思......そう言ったモノを、自分達の国の明日を、自分達が選択した未来を歩む権利を、信じて委ねる」
クイッと彼は猪口を傾けた。すっきりとした味わいの、澄んだ酒が喉を滑り落ちる。
「──50年後、どんな形の日本という国があるかは分かりませんし、その頃には私は彼岸にいるでしょう。私が、自衛官として守ろうとしていたのは......そんな未来なのだと思います」