第14話
万劫の防人──今は亡き父は、息子である風間俊一へかつて語った。
彼の父は、成長した後に航空自衛隊へ進み、空将補として退官するまで航空徽章を外さなかった。それを外さぬ為の日々の努力──体力錬成もそうだが、知識を養い、操縦資格保持者に課せられる年間の最低飛行時間、技量維持飛行も怠らなかった。
万劫の防人──それを語られたのは、帰省の時期がちょうど重なった時だったろうか。
長男と次男、まだ幼い息子達を残して海へ出るのは、それが仕事だとしても世間一般では理解されるか怪しいところだ。存命中の祖父、母に加えて家事を請け負う家政婦達がいたからこそ成り立った生活である。
風間湊が生まれ、そして風間俊一の妻が亡くなった頃はその父も、定年退官まで数年に迫りつつある時期だった。
何ヶ月ぶりかに家族が揃った数日間も、風間俊一とその父は度々、道場や射場で稽古を共にしていた。
幼い兄弟二人を抱いた祖父が呆れた顔をしていたのは言うまでもない──正確には曾祖父、曾孫の関係ではあったのだが。
「──俺達は、万劫の防人、だとさ」
「──なんだ、急に」
道場で並び立ち、真剣を振るいながらの形稽古を共にした後だ。休憩の最中、父が漏らした一言へ風間俊一が疑問符を浮かべた。
「......いや。この前の盆に住職が来てくれたんだ」
「あぁ......」
棚経のことだろう。盆の時期に僧侶が檀家の自宅を訪れ、精霊棚や仏壇の前で読経する仏教行事、夏の風物詩とも言える光景である。生憎と風間俊一はその時、ハワイへ赴いていた。
残暑が続く時期の夕方まで続いた稽古終わりの休憩。薬缶の中へ氷を詰め込み、傾ける度にガラガラと音が鳴るそれを掴んだ父が、息子の湯呑みへ冷えた麦茶をたっぷりと注ぐ。
「俺やお前のことを、住職が万劫の防人と言っていた」
「......万劫、ねぇ......」
この上なく長い年月や永遠を意味する仏教用語──だったろうか、と風間俊一は思い出しながら湯呑みを掴んで何口かを嚥下する。
その傍らでは道場の縁側へ腰掛けた彼の父がステンレスの質素な灰皿を用意し、銜えた両切り煙草の先端をマッチの火で炙り始めた。
ブリキ缶へオリーブの葉を銜えた鳩のデザインが描かれた、平和を意味する英単語の銘柄。それの紫煙を燻らせる父は、続けて息子に横目を向けた。
「......お前は、なんで海を選んだ?」
「随分と今更だな」
防衛大学校への進学、ひいては海上自衛官を志願する旨を告げた風間俊一の姿を記憶から呼び出した父が尋ねると、当の本人は眉根を寄せて今更の質問の真意を伺う。
「平和の為に──だったか。覚えてるが、格好の良い、おためごかしな理由よりも本心を聞くのを忘れてたんだ」
「......それこそ遅いと思うが......」
「飯の時間に言ったお前が悪い」
夕食の場で切り出されたのだ。父や祖父は、やや驚きながらも納得して許可を出した──というよりも、眼前の食事の方が大切だったとも言える。
なによりもまずは飯、話はそれから。分からないでもないが、随分と遅い問い掛けでもあろう。
湯呑みを傾け、稽古で体内に籠もった熱を麦茶が冷ますのを実感しながら、風間俊一は視線を遠くへ向ける。
道場や射場、庭園──この屋敷の敷地内から臨む横須賀の海へ彼は視線を向けた。
「──この景色を見ながら育った。この景色を守りたいと、思った」
幼い頃からの原風景──横須賀の海と街並みを一望する景色。夕暮れの街並みは家々に少しずつ照明が灯り始めた。
顔馴染みもいれば、名や顔を知らぬ人々もいる。海があって、船が行き交い──暮らしの営みが続く景色。
「......そうか」
息子は、幼稚な理由を口にした自覚があるのだろう。しかし父は静かに納得の言葉を返した。
「......笑わないのか?」
「笑う訳がないだろう」
心外と言わんばかりに父は切り返し、続けて紫煙を燻らせる父は、自嘲の苦笑いを浮かべる。
「......妹を背負ったお袋に腕を引かれて、火の中を泣きながら逃げ回った鼻垂れ小僧よりも余程、立派だ」
横浜空襲──彼の父は、実際に火の中を逃げ惑った。逃げ惑う人々の合間を縫い、母の腕に引かれる父は燃え盛る炎に舐められ、炎上する家々や焼け死ぬ老若男女の光景を否応なく目撃したことだろう。
二度と空を侵させない──灰燼に帰した街並みを眺め、空を睨んだ幼い少年の心に宿ったのは使命か、それとも憎悪か。
父がブリキ缶を息子へ差し出す。蓋が開いたままの内側は紙巻き煙草がぎっしりと密集していた。
息子は紙巻き煙草を引き抜く。それの吸い口はフィルターが存在しない両切りだ。詰められた葉を指先で軽く押し固め、口腔へ葉を吸い込まないようにしてからから風間俊一は唇へ銜える。銜えるというよりも、唇の縁へ引っ掛けた。
兎も角、唾液が付かないよう注意しながら銜えると、彼の父がマッチを擦る。パンと弾ける音を微かに響かせ、火が灯ったマッチ棒を息子の口元へ運んだ。
その火で煙草の先端を炙り、紫煙を燻らせた息子を認め、父は手首を軽く振って消火したマッチ棒を灰皿へ捨てた後、口を開いた。
「......万劫の防人か。そんな立派で格好良いものじゃないんだがな」
「全くだ」
空を守り、海を守る。父と息子の領分はそれぞれ異なった。
しかし、どちらも国防の最前線へ立ち続けている。父は半生に渡って、空へ上がり、雲海の果てを睨み続けた。そして、その役割も間もなく終わる。
「......響きは悪くないが、大変な仕事だ」
その生涯の半分を職務へ捧げることとなった父が漏らした本音。傍らに腰掛ける息子は黙ったまま煙草を片手の指先へ挟みつつ湯呑みを取る。
「......誰よりも強くなる。強さを維持する。誰とも戦わない為に」
湯呑みを傾け、冷えた麦茶を嚥下する息子は一見すると矛盾にも等しい言葉を口にした。
だが、その本質を正しく受け取ったのだろう父は静かに頷く姿を見せる。
「昨日が今日へ、今日が明日へ──か。平和を守り続けるとは、難しいことだな」
変化に乏しく、代わり映えしない日常の連続性──それを風間俊一の父は、平和、と形容した。
息子も同意するのか、黙って頷きつつ紫煙を燻らせる。父も時を同じくして紫煙を緩く漏らす。
平和の名を冠した銘柄の紫煙が、穏やかな夕風へ乗る。
夕焼けに染まる水平線の果てまで、凪いだ空と海が広がっていた。