第2話
光り輝く夏の海。寄せては返す波の潮騒は穏やか。
神奈川県横須賀市。海上自衛隊やアメリカ海軍の艦船が停泊する岸壁、桟橋に吹き抜ける風には潮気が混ざっていた。
夏の夕暮れは遅いとはいえ、太陽が少しずつ傾き掛けて来る頃、全体的に灰色の塗装がされた1隻の護衛艦から特徴的な甲高い号笛の音が響く。
ホォーーーピィーーー
見れば護衛艦の舷側へ整列した乗組員達の姿がある。整然と並んだ彼等の眼前を通過する一際目立つ人影。
純白の第三種夏服──半袖開襟シャツの胸元は連結金具へ取り付けられた各種防衛記念章や徽章が輝き、双肩には1等海佐の階級章。白ズボンは相当にプレスがしっかりと掛けられているのだろう。皺が見受けられないそれの足下は白色短靴が覆っている。
被った正帽から短く刈り上げた黒髪が垣間見える。正帽の庇へ五指を揃えた右手の指先を翳し、舷側送迎の為に整列した乗組員達へ答礼を返しつつタラップを降りる人影こそ、この護衛艦の艦長だ。
護衛艦あずまを預かる艦長の名は風間拓海。38歳の男性である。
護衛艦の艦長を拝命するには相当若い年齢だ。しかし若さを感じさせない威風堂々とした体躯を持ち、古武士を思わせる雰囲気を漂わせている。
タラップを降り、岸壁へ辿り着いた艦長を認めた二十歳前後の年若い海士長が既に到着を待ち焦がれていた黒塗りの公用車の後部座席へ繋がる扉を開けつつ敬礼する。
その敬礼へ端正な答礼を返した彼は185cmの長身を車内に滑り込ませた。
扉が閉められ、運転手が公用車を走らせ始めた時、風間拓海は車窓に映り込む灰色の艦影へ横目を向ける。
護衛艦あずま──艦名は福島県の北部と山形県の県境へ聳える吾妻山から取られた。旧帝国海軍にも装甲巡洋艦吾妻が存在する。
艦長と同様に護衛艦あずまも艦齢は若い。4年前に就役したばかりの護衛艦だ。中期防衛力整備計画によって示された統合機動防衛力を構築する為、海上自衛隊には新たな護衛艦が建造されたが、更なる防衛力強化を図り、建造が認可されたものがこの護衛艦あずまである。
最新鋭の装備機器を備えた本艦は電子戦の強化のみなず、その最たる特徴として挙げられるものとして巡航ミサイル──つまり、トマホークの運用能力が付与されたことがそれだろう。
帰国は久々だ。昨年の暮れに横須賀を発ち、アメリカで新装備の搭載が始まり、乗組員達の慣熟の為の訓練続きだった。環太平洋合同演習へ参加する前に実射訓練を済ませ、艦全体の練度は申し分ない程に成長したと言える。
対地攻撃能力──反撃能力を得たこの艦は、いずれ母港となる場所が変わるだろう。佐世保か、或いは舞鶴か。どちらにせよ、この横須賀を離れる運びとなる筈だ。
それまで自身が艦長でいられるかは分からないが──と彼は小さく溜め息を漏らした。
その夜、横須賀海軍施設内に建つ将兵用高層住宅の一室でシャワーの水音が止む。次いで暫くドライヤーの音が鳴り響き続けた。
1日の勤務を終えたばかりなのだろう。ややくたびれた様子を浮かべる顔へフェイスマスクを貼り付けた長身の女性がバスローブを纏ってリビングに姿を見せる。
「......マジ、めんどい」
横須賀での勤務を命ぜられて早数年。ここの仕事にもすっかり慣れたが、辟易とするのは周囲の男性士官陣からのアタックだ。
面倒臭いことこの上ない。今日も将校用クラブでディナーを、と誘いを受けたが彼女はきっぱりと断った。
勤務中は規則通りに──近年、だいぶ緩和されたが、彼女は自前のゴールデンブロンドをきっちりシニヨンへ纏めているが、プライベートの時間が来るとそれを解いて肩甲骨まで伸ばした長髪に変える。オンとオフの切り替えのルーティンのようなものだろう。
食事は帰宅前に済ませていた。ここ数日は夕食がピザである。
フェイスマスクを外してゴミ箱に投げ捨てた彼女──カタリナ・ヴァン・ドレン海軍少佐は金髪を靡かせつつ、勤務後のプライベートの時間を満喫する準備を整えていく。
彼女の所属は第7艦隊、その情報分析部門へ籍を置いている。出身はアメリカ合衆国のヴァージニア州。海軍関係者が多い家系の産まれでもあった。
父や祖父も海軍士官、生まれ育った家の近くには世界最大の海軍基地とも呼ばれるノーフォーク海軍基地。必然と彼女の進路も定まったようなものだ。
カラン、と軽やかな音を立てながら江戸切子のロックグラスへ小振りな氷塊がひとつ落とされた。そこへオールドヴァージニアをグラスの半分ほど注ぎ、グイッと一息に飲み干す。
「......はぁ......」
やはり、これが一番だ──顔へそのような感想が浮かんでいる。今度は並々と注ぎ、グラスを持ちつつリビングのローテーブル上へ置いていた黒革のシガーケースを握ってベランダに。
ベランダには椅子とテーブルが設置され、机上の灰皿の横へグラスを預けたカタリナがシガーケースを開ける。
キューバ産の葉巻──コイーバを愛煙している彼女は慣れた手付きで、葉巻を摘みつつギロチンの刃で端を切り落とした。フラットカットで作られた吸い口を認め、カタリナはターボライターを握り、先端を噴き上がった青い火の外縁でゆっくりと炙っていく。
徐々に炭化する先端。指先で葉巻を回し、全体が均等に焦げると、少し厚めで潤いのある唇へ銜えてゆっくり紫煙を吸い込んだ。
先端の火の回りは上々。あとはじっくり味わうだけ。
ターボライターを机上へ置き、バスローブの裾から白く長い脚を覗かせ、脚を組みつつ彼女は横須賀の潮気を孕んだ夜風に吹かれながら紫煙を堪能する。
片手には葉巻、時折、グラスを傾ける彼女の表情は何処か恍惚ともしている。
この就寝前の一時が、最もリラックスできる時間だ。この時間だけは誰にも邪魔されたくない。無粋極まる。
それが例え、艦隊司令官や大統領であろうとも──
「──ん?」
閉められた窓の向こうでバイブレーションの音が響いているとカタリナは気付いた。
肩越しに振り向くと、嫌なものが彼女のアイスブルーの瞳へ映り込んだ。リビングに鎮座するテーブルの机上、そこへ置かれた携帯端末が着信のバイブレーションを起こしているのだ。
液晶画面に遠目ではっきりしないが、艦隊司令官である中将の名が──映っている気がする。
いや、きっと気の所為だ。そうだ、その筈である。
艦隊司令官がこんな時間に電話を掛けて来る筈がないのだ。
現実逃避する為、カタリナは再び悠然と脚を組み直して葉巻とバーボンを堪能──は出来ない。
深い溜め息を漏らした彼女は灰皿へ吸いかけの葉巻を預け、携帯端末を取りにリビングに戻った。