2話
2、すり鉢
熱だけを残したように軽い青年を抱え、廃れた神社の階段を下った。
右手に立派な平屋の日本家屋が見える。
入口を隠すように冬でも葉を落とさぬ木々が数本、植えられている。
庭先には冬になって、何が育つ訳でもない植木鉢がその土で霜を育てていた。
廊下は暖房の届かぬ隅から凍えていて、雅の吐く息はまだ白い。
ガララ。青年が僅かに身動ぎをしたのを感じ、背に回していた腕を僅かに揺らす。
「おい、しっかりしなさい」
短く呻くような声を上げる。
漆黒の、黒曜石のような瞳が細く開けた隙間から伺えた。すぐにその瞳は弱々しく閉じられた。
「なぁに、なんか拾ってきたの」
眠気眼を擦り寝ぼけた頭を振りながら、青年と同じほどの背丈の少女が気怠そうに歩いてくる。
彼女は百萌。
淡い栗色の瞳に、少し癖があり襟足が長く無造作な黒髪。その態度からも言葉尻からも柔らかさを滲ませる不思議な少女だった。
「神社に行ったら倒れていた。放置も出来ないだろう」
「なぁんだ、食べちゃえばいいのに」
ほんと、優しいよねと口角の片方だけを上げる。焦りや心配、不安感、そういうものを纏っていた。
百萌は手の塞がった雅の代わりに襖を全開にし、青年を抱えて通れるように通路を空けた。
目配せだけで感謝をすると、雅は中庭の周りを回って奥の寝室を目指した。
中庭の外周を回るように伸びた廊下を辿る。中庭の雪はまだ誰の足跡もなく、朝日を受けて青白く輝いている。
青年を客用布団を引きずり出して寝かせる。服には溶けかけた雪やら葉っぱやら、とにかく色々なものが巻き込まれていた。
帯を解いて楽にさせ、下着だけの状態で布団をかけてやる。箪笥から着替えを見繕い枕元へ置いた。
未だ眉間のしわは深いままだ。
「少し、寒いだろうか」
廊下に置いていた火鉢を中へ運んだ。布団に横たわった青年は荒い息を繰り返していた。
台所からはカチャリと茶碗を流しに置く音がする。
障子越しの光がまだ青く、部屋の隅々まで冷たい静寂が満ちていた。
「はあ......仕方ない」
目を閉じ、しばらく思考を鎮める。生命力の流れを感じ、形にする感じ。
青年の肩に触れ、流し込むようにイメージした。
弱っている灯火に自分の火を分けてやるように。
数秒すると顔色が幾分か良くなり、眉間の深いシワが幾分かなだらかになった。
ぐわん、とめまいが襲う。
「クソッ、こんなに、不足していたか」
胸元に忍ばせておいた黄色の小さな宝石を口に放る。
甘く、じゅわりと口に広がり、全身の血液が熱狂するように沸き立つような感覚がする。
口角が意図せずほんの少し上がった。
鼻で自身を嘲笑し、調剤に使っている書斎へと向かう。
朝飯を食べ終え、洗い物を終えたらしい百萌がとたとたとあとを着いてくる。
「雅、また無茶したでしょ。ほら、僕の"喜び"持って行っていいよ。また余ってるから」
「悪いな」
雅は振り返って百萌に手を向ける。肩にほんの少し指先が届くと、そのまま静止した。皮膚を骨を血液を伝って喜びの感情が内へと流れ込んでくる。
心の、空っぽのそこに雫がぽたぽたと落ちるような速度で溜まっていく。
じわり、と溜まった黄色が形を成す。
丸く、棘のないシトリンを思わせる純粋で透明な宝石。
けほ、と軽く咳をすると、口腔に硬いものがこつりと当たる感覚がする。それをそのまま飴を舐めるように溶かして飲み込んだ。
幾分か目眩が収まり、正常な視界へと戻る。
「ありがとう」
雅は百萌に礼を言う。先程まで彼女に纏っていた淡い黄色はしんと鎮まっている。
百萌が笑う度、彼女の周りには黄色が滲む。
陽気で明るく、陰りの無い感情。
また明日にでも、オーラを纏うように百萌の喜びは溢れて漏れる。口から宝石を吐き出せばこの薬屋の売れ行き商品にもなる。
「ううん、いいよ。暇だからお仕事手伝おうと思って」
「そうか、助かる」
百萌が握ってくる手を拒まずにそのままゆったりと引いた。雪の積もった中庭を横目に調剤部屋に向かう。
まだ時刻は八時半。
雅の、いつもと変わらぬ一日が幕を開ける。
じきに医者が来るだろう。書斎の窓は結露で白く曇り、外の雪明かりだけがぼんやりと透けていた。
「愛惜の石が足りなかったの」
百萌が部屋に入ると在庫を確認して報告してくる。
ゴリ......ゴリリ......
雅はすり鉢で脆い憧憬をすり潰し、粉にしていた。すり鉢から顔を上げて百萌の困った顔を見る。
「それなら、昨日夜遅くに来た患者に売った。費用は政府へのツケだ。お偉方だったんだろう」
「ふぅん、ならいいけど」
空っぽになった愛惜の薬棚を引き抜くと、僅かに残った欠片が転がる音がした。とんとんと叩いて角に残った欠片を集める。
「愛情類の仕入先が必要だ。近いうちにどこかの問屋か、遊郭にでも行かなければ」
苦い顔で言う。愛情類は雅にとって最も理解できない感情だった。おそらく百萌も同類だろう。
雅は一度だって彼女の名を呼んだことはない。二人は契約でのみ結ばれていた。少なくとも雅からはそう映っていた。
百萌には同情こそすれど、攫ってきた罪悪感の欠片も湧かなかった。
「すみません、雅さ〜ん?」
医局から中年の、ふくよかな男が一人到着した。薬の売り買いですっかり常連になった医者の男だった。
勝手知ったる素振りで庭に入り、縁側からこちらを覗き込んでいる。
「そこから入ってくれ。急患だ」
「へぇ、そうですか。百萌ちゃんはそこにいるみたいですけどねえ」
腹を揺らしながらよっこいせと雪駄を脱いで縁側を登り、雅の長細い指に指し示された寝室を目指す。
「玄関から入らんか」
「まあ、いいじゃあねぇですか」
寝室の襖を開けると、あらまあと間抜けな声を出した。
「よく眠ってら」
「応急処置だけはしておいた、あとは頼む」
「へえ、分かりましたよ、アンタの頼みじゃ仕方ねえ」
男はカバンから聴診器を取り出すと、青年の下着を剥いでその胸に当て、診察を始める。聴診器の冷たさに驚いたのか、少年が飛び上がるように起きた。
「うあ!......こ、こは」
「ここは百味堂。詳しくは医者に聞いてくれ」
「ちょっと薬屋の旦那!そりゃないですよ」
起き上がったらしい青年が、混乱しながら医者に現状聞くべきか迷いながら、まだ困惑した頭を抱えた。
雅は背を向けて立ち去る。
この状況を口下手な雅がうまく説明できるはずもない。短くない仲の医者だ、ああは言いながらも上手いこと諌めてくれるだろう。
雅は再び書斎に戻り、百萌と共に製薬の作業に戻った。
ゴリ......ゴリ......ゴリリ。
すり鉢を擦る音だけが調剤室から滲み出て、廊下までもを侵食していた。ホコリが振動に揺れて身動ぎする。
ここはいつだってそうだった。
何世紀も、何世紀も。
人間の感情を宝石にして、まるで展示物のように丁重に仕舞い、封じる。
この家にはいつだってへばりつくような沈黙と、すり鉢を擦る音が染み付いていた。