ホーム百味堂1話
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1話

1、雪の日
1、雪の日

 枯山水の水面を踏み潰した。
 白砂の波が、素足の下で崩れる。

 門を越える。

 廊下の角で足がもつれ、壁に肩を打ちつける。
 構わず曲がる。

 握った脇差の柄頭を歪んだ模様硝子へ叩き込み、割れきるより先に身体を投げた。

 硝子が弾ける。
 踏む。刺さる。
 
 背後から雪崩れ込んだ有象無象が柱を揺らし、 隣の硝子までもを割った。

 弾ける轟音の中、裏庭へ転がる。
 膝が擦れ足が滑る。
 顔を上げた先で、青白い脚が退路を塞いでいた。
 膝が頭より高いところにある。

 右に。

 違う。
 東、日の登る方へ。

 足裏の硝子ごと、地面を蹴った。



 逃げろ。


 逃げろ逃げろ、にげろ。



 どれだけ走っただろう。

 

 足が、もつれた。
 爪先が、雪の下の根を蹴った。
 膝が折れる。
 右手が雪を突き抜け、黒い土を掴んだ。

 土を握ったままで走り出す。

 喉仏が吸い込む勢いに負けてぐぎゅ、と痛んだ。

 妖たちの崇拝するような目線を背中に感じる。逃げているあいだ、彼らはひどく行儀が良かった。


「っ、あ、」


 何かが足首に絡んだ。

 視界が、一気に地へと落ちる。
 伏せていた細枝が着物越しに脇腹と腿へ突き刺さる。枯れ葉が口元に貼りついた。

 う、と。

 漏れた息で一枚だけがわずかに震えた。
 頬のすぐ下で、雪に蓋をされていた土が匂う。

 拳と、足とを硬く握る。
 再び立ち上がろうと藻掻く。
 限界まで走った肘が立つことはなかった。
 
 葡萄茶色えびちゃいろの着流しが自分の熱でほどけた綿を吸い、ずっしりと、下から重くなっていった。
 視界の端に山葡萄が映った。自分の着物だった。

 体温が奪われていく。

「おとう、さま......おかあ、さま......」

 声は吐息にもなれず、唇のそばへ落ちた。

 二人がもう走れないことを、青年は知っている。
 母の袖が最後にどこへ倒れたかも、父の背が起き上がらなかったことも、知っている。

 知っているのに、頭の中では、父の背と母の袖がまだ雪の向こうを駆けている。

 ――貴方だけは。

 母の声は、未だ鮮明に記憶にあった。

 あの手に押されて、ここまで来た。
 母が最後に残した祈りを、小さな身体に抱えて走った。

 けれど、どこまで逃げれば、守ったことになるのだろう。

「おかあ、さま......おれ、まだ、いきて...ますよ」

 銀が消えた。

 葡萄茶えびちゃが消えた。

 最後まで雪の向こうを走っていた母の袖も、やがて冬の白へ溶けた。




 しんっと冷えた板張りの廊下へと出る。
 座敷の襖を閉めた。紙の擦れるようなざらついた音。
 
 不純物のない凍えた空気が肌を直接刺した。
 まだ薄ぼんやりと暗い冬の、陽も登らぬ早朝だった。

 脱衣所で顔を洗い、手ぬぐいで拭く。
 手を退ければ二十代後半の耽美な顔をした一重の塩顔が映っていた。
 
 もうこの顔とも随分長い付き合いだ。人間の人生が六十年とするならば、その五倍はこの顔で世を渡り歩いている。人間ならば見飽きるより先に死んでしまう時間を、雅はずっと同じ顔で渡り歩いて来た。

 草履に履き替え土間に降りる。霜が降りた足元の土は黒く染まっている。

 台所に立ってやかんを火にかける。いつものように味噌汁と卵焼きを作ろうと片手で卵を割って椀に入れた。なんの腹の足しにもならないのだが。
 
 黄身が割れたのを気にせず一定間隔で腕を回す。卵を攪拌する音が、静まり返った広い一軒家に響く。
 続いて卵液が熱い鉄に触れる小気味いい音がして、やかんから立ち昇る湯気が結露した窓を撫でた。


 静かなものだ。


 この箱庭には生き物の気配が無かった。
 雅と名乗る、薬屋の店主以外の気配は何一つとして。
 吐き出す息が白い。
 指先がじんわりと熱で解けた。

 さっさと食べ終え、外套を着て玄関を左に。襟の内側に入り込んだ長い白髪を外へ逃す。
 
 廃れた神社への階段を上る。どうやら昨夜は雪が降ったらしく、竹林が化粧を纏っていた。
 足を止める。手近な葉から朝焼けで溶けた露が一滴、落ちた。

 階段を上り終えると、左手に樹齢五百年はくだらない大木のけやきそびえる。葉の下は幹を中心として綺麗に雪が積もっていなかった。鬱蒼うっそうとした葉が傘になったらしい。

「せっかくならば、全面雪で覆えば美しいものを」

 誰に聞かせるでもなく、純白の世界に不釣り合いな土を見下ろした。
 素面で引きずり出された乙女を憐れむ視線で撫で付け、神社の入口に視線をやり、一歩踏み出す。

 烏たちが、何やら騒がしい。

 この辺一帯を束ねている烏が足元へ降り立ち、カァと一声鳴く。呼んでいる。

「こら、どうした」
「カァー!」

 烏は振り返る。こちらだ、と踵を返し一定の間隔で跳ねて竹藪に駆けていく。
 雅はゆっくりとした足取りでその後を追う。どうせいつものように獲物でも自慢したいのだろう。

 竹藪を掻き分け進んでも烏は一向に止まらない。
 時折こちらを振り返る。
 もう追いかけるのをやめようかと飽き性な性がぼやき始める。


 ――カァ!


 その時、烏がひときわ高く一声鳴いた。

 外套の両方の裾に手をしまい込み、行儀の悪い歩き方をしながら烏の背を追った。
 彼が止まった場所に目をやる。
 細まっていた目が段々と丸に近づく。
 
 一歩、二歩と段々とその速度を上げる。

 倒れている人影。
 薄く透けた天然の毛布が着流しの模様を隠していた。
 まだらに朱に染まった雪が布団代わりに敷かれていた。その上に、ざっくばらんに散らばる切り揃えられた紺碧の髪。

 慌てて竹の間を縫って走り青年に駆け寄った。

「ほら、ほら。君、しっかりしなさい」

 背中に手を回し抱き上げる。積もっていた雪が割れ、落ちた。
 青年の身体は驚くほど熱く、浅い息で細かく白い煙を吐いていた。
 頑なに閉じられていた瞼が僅かに震えた。
 掠り傷だらけの腕がだらりと垂れた。

「すごい熱だ。おい烏、私の家まで医者を呼べ」

 左手で胸元から筆と紙を取り出した。
 筆の蓋を口で咥える。
 急患有り。末尾に自分の名を書き記した。青年の腹の上で紙の端が濡れた。

 細く折った紙を烏に差し出す。大人しく咥えた。
 意図を理解し頭を下げると、出し飛び去って行った。
 
 あの厄介な鳥もたまには役に立つ。

「はぁ、これは......骨が折れる」

 やれやれと肩を竦ませる。
 足の下と背に腕を通し青年を抱えあげた。言葉とは裏腹に抱える力を慎重に見極めていた。

 まだ年端もいかない青年の体は雅の腕にはあまりに軽かった。

 控えめな動きで粉雪を払ってやる。
 吐息を染め上げた諦めの白色に安堵の暖色が混じった。

「階段は応えるだろうが、許してくれ」

 身体を横に抱えると青年の冷え切った温度が腕に移った。
 今しがた通った廃れた鳥居を潜り、下駄を鳴らしながら階段を降りていった。

 下駄は一段ごとに音を落とした。

 一つ。
 少し間を置いて、もう一つ。

 青年は小さく呻き声を上げながら雅の胸もとに擦り寄った。

 雅は何も言わなかった。
 ただ青年の背へ回した腕を、階段を一つ下りる間だけ、僅かに深くした。
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 枯山水の水面を踏み潰した。
 白砂の波が、素足の下で崩れる。

 門を越える。

 廊下の角で足がもつれ、壁に肩を打ちつける。
 構わず曲がる。

 握った脇差の柄頭を歪んだ模様硝子へ叩き込み、割れきるより先に身体を投げた。

 硝子が弾ける。
 踏む。刺さる。
 
 背後から雪崩れ込んだ有象無象が柱を揺らし、 隣の硝子までもを割った。

 弾ける轟音の中、裏庭へ転がる。
 膝が擦れ足が滑る。
 顔を上げた先で、青白い脚が退路を塞いでいた。
 膝が頭より高いところにある。

 右に。

 違う。
 東、日の登る方へ。

 足裏の硝子ごと、地面を蹴った。



 逃げろ。


 逃げろ逃げろ、にげろ。



 どれだけ走っただろう。

 

 足が、もつれた。
 爪先が、雪の下の根を蹴った。
 膝が折れる。
 右手が雪を突き抜け、黒い土を掴んだ。

 土を握ったままで走り出す。

 喉仏が吸い込む勢いに負けてぐぎゅ、と痛んだ。

 妖たちの崇拝するような目線を背中に感じる。逃げているあいだ、彼らはひどく行儀が良かった。


「っ、あ、」


 何かが足首に絡んだ。

 視界が、一気に地へと落ちる。
 伏せていた細枝が着物越しに脇腹と腿へ突き刺さる。枯れ葉が口元に貼りついた。

 う、と。

 漏れた息で一枚だけがわずかに震えた。
 頬のすぐ下で、雪に蓋をされていた土が匂う。

 拳と、足とを硬く握る。
 再び立ち上がろうと藻掻く。
 限界まで走った肘が立つことはなかった。
 
 葡萄茶色えびちゃいろの着流しが自分の熱でほどけた綿を吸い、ずっしりと、下から重くなっていった。
 視界の端に山葡萄が映った。自分の着物だった。

 体温が奪われていく。

「おとう、さま......おかあ、さま......」

 声は吐息にもなれず、唇のそばへ落ちた。

 二人がもう走れないことを、青年は知っている。
 母の袖が最後にどこへ倒れたかも、父の背が起き上がらなかったことも、知っている。

 知っているのに、頭の中では、父の背と母の袖がまだ雪の向こうを駆けている。

 ――貴方だけは。

 母の声は、未だ鮮明に記憶にあった。

 あの手に押されて、ここまで来た。
 母が最後に残した祈りを、小さな身体に抱えて走った。

 けれど、どこまで逃げれば、守ったことになるのだろう。

「おかあ、さま......おれ、まだ、いきて...ますよ」

 銀が消えた。

 葡萄茶えびちゃが消えた。

 最後まで雪の向こうを走っていた母の袖も、やがて冬の白へ溶けた。




 しんっと冷えた板張りの廊下へと出る。
 座敷の襖を閉めた。紙の擦れるようなざらついた音。
 
 不純物のない凍えた空気が肌を直接刺した。
 まだ薄ぼんやりと暗い冬の、陽も登らぬ早朝だった。

 脱衣所で顔を洗い、手ぬぐいで拭く。
 手を退ければ二十代後半の耽美な顔をした一重の塩顔が映っていた。
 
 もうこの顔とも随分長い付き合いだ。人間の人生が六十年とするならば、その五倍はこの顔で世を渡り歩いている。人間ならば見飽きるより先に死んでしまう時間を、雅はずっと同じ顔で渡り歩いて来た。

 草履に履き替え土間に降りる。霜が降りた足元の土は黒く染まっている。

 台所に立ってやかんを火にかける。いつものように味噌汁と卵焼きを作ろうと片手で卵を割って椀に入れた。なんの腹の足しにもならないのだが。
 
 黄身が割れたのを気にせず一定間隔で腕を回す。卵を攪拌する音が、静まり返った広い一軒家に響く。
 続いて卵液が熱い鉄に触れる小気味いい音がして、やかんから立ち昇る湯気が結露した窓を撫でた。


 静かなものだ。


 この箱庭には生き物の気配が無かった。
 雅と名乗る、薬屋の店主以外の気配は何一つとして。
 吐き出す息が白い。
 指先がじんわりと熱で解けた。

 さっさと食べ終え、外套を着て玄関を左に。襟の内側に入り込んだ長い白髪を外へ逃す。
 
 廃れた神社への階段を上る。どうやら昨夜は雪が降ったらしく、竹林が化粧を纏っていた。
 足を止める。手近な葉から朝焼けで溶けた露が一滴、落ちた。

 階段を上り終えると、左手に樹齢五百年はくだらない大木のけやきそびえる。葉の下は幹を中心として綺麗に雪が積もっていなかった。鬱蒼うっそうとした葉が傘になったらしい。

「せっかくならば、全面雪で覆えば美しいものを」

 誰に聞かせるでもなく、純白の世界に不釣り合いな土を見下ろした。
 素面で引きずり出された乙女を憐れむ視線で撫で付け、神社の入口に視線をやり、一歩踏み出す。

 烏たちが、何やら騒がしい。

 この辺一帯を束ねている烏が足元へ降り立ち、カァと一声鳴く。呼んでいる。

「こら、どうした」
「カァー!」

 烏は振り返る。こちらだ、と踵を返し一定の間隔で跳ねて竹藪に駆けていく。
 雅はゆっくりとした足取りでその後を追う。どうせいつものように獲物でも自慢したいのだろう。

 竹藪を掻き分け進んでも烏は一向に止まらない。
 時折こちらを振り返る。
 もう追いかけるのをやめようかと飽き性な性がぼやき始める。


 ――カァ!


 その時、烏がひときわ高く一声鳴いた。

 外套の両方の裾に手をしまい込み、行儀の悪い歩き方をしながら烏の背を追った。
 彼が止まった場所に目をやる。
 細まっていた目が段々と丸に近づく。
 
 一歩、二歩と段々とその速度を上げる。

 倒れている人影。
 薄く透けた天然の毛布が着流しの模様を隠していた。
 まだらに朱に染まった雪が布団代わりに敷かれていた。その上に、ざっくばらんに散らばる切り揃えられた紺碧の髪。

 慌てて竹の間を縫って走り青年に駆け寄った。

「ほら、ほら。君、しっかりしなさい」

 背中に手を回し抱き上げる。積もっていた雪が割れ、落ちた。
 青年の身体は驚くほど熱く、浅い息で細かく白い煙を吐いていた。
 頑なに閉じられていた瞼が僅かに震えた。
 掠り傷だらけの腕がだらりと垂れた。

「すごい熱だ。おい烏、私の家まで医者を呼べ」

 左手で胸元から筆と紙を取り出した。
 筆の蓋を口で咥える。
 急患有り。末尾に自分の名を書き記した。青年の腹の上で紙の端が濡れた。

 細く折った紙を烏に差し出す。大人しく咥えた。
 意図を理解し頭を下げると、出し飛び去って行った。
 
 あの厄介な鳥もたまには役に立つ。

「はぁ、これは......骨が折れる」

 やれやれと肩を竦ませる。
 足の下と背に腕を通し青年を抱えあげた。言葉とは裏腹に抱える力を慎重に見極めていた。

 まだ年端もいかない青年の体は雅の腕にはあまりに軽かった。

 控えめな動きで粉雪を払ってやる。
 吐息を染め上げた諦めの白色に安堵の暖色が混じった。

「階段は応えるだろうが、許してくれ」

 身体を横に抱えると青年の冷え切った温度が腕に移った。
 今しがた通った廃れた鳥居を潜り、下駄を鳴らしながら階段を降りていった。

 下駄は一段ごとに音を落とした。

 一つ。
 少し間を置いて、もう一つ。

 青年は小さく呻き声を上げながら雅の胸もとに擦り寄った。

 雅は何も言わなかった。
 ただ青年の背へ回した腕を、階段を一つ下りる間だけ、僅かに深くした。
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百味堂作者:のらり、くらり
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