4話
4、愛の才
湯浴みを済ませ、細いろうそくを焚きながら中庭側の襖を開ける。
手水に映る月を眺めていた。
紫煙を煙管で深くまで吸い込み大気へと溶かせば、その場に停滞したあとゆるやかに落ちていく。
「どうして、あんなところに転がっていたんだ」
雪は廊下から流れ込む冷気に耐えかねて、雅の布団の横に客用布団を敷きなおして潜り込んだ。
「両親を殺されたあと、荷車に乗せられました」
「荷車からなんとか逃げ出して、必死に走った先があそこでした」
煙管から甘ったるい桜の香りがする。この葉は甘すぎる。もう吸わない。そう思うのにどこか癖になる。
屋根から伝った雪解け水が、ちゃぽん、と手水の表面に水紋を浮かべる。段々と波紋が広がって、水際に吸い込まれていくのをただ眺めていた。
「あなたは、人ではないのですか」
「私は悪魔だ」
悪魔、という単語に少年の体が酷く強ばった。雅はため息をついて補足を入れる。
「その辺にいる中級以下とは違う。境界院に勤める悪魔だ」
「......きょうかいいん?」
頭に疑問符を浮かべ、布団の中に半分伏せていた顔を冷たい空気に晒す。仕草がなんともわざとらしい。
それでも深追いはしない。嘘をつく理由に興味はない。
「人間やその他種族と悪魔の橋渡しをする仕事、と言ったらわかるか」
風邪を引いた時の、熱に浮かされたような頬から視線を外し手水へ戻す。積雪の中行き倒れ、風邪でも引いたのだろう。
「境界院という名は知りませんが、人間に理解ある悪魔が八人、という童話は聞いたことがあります」
雅は緊張の色を雪から感じ取った。
明確に嘘をついている。
きっと境界院を知っている。
口にできない何らかの事情があるのだろう。
「まあ、間違ってはいない」
そんな些細なことはどうでもいい。人間社会で境界院がどのように扱われているかなど雅の知ったことではないのだから。
夜気が襖の隙間から忍び込み、ろうそくの火先を小さく震わせた。
「悪魔は、人と同じ食事を食べぬのではないのですか」
「ああ、さっきのはただの習慣だ」
「ではやはり、人を、喰らうのですか」
雪の体が震えている。
喉が引き攣っている。
喉仏が細かく上下した。
警戒の色が部屋を満たす。
全く、呆れた。
「はぁ、私は人間の感情しか食べぬ生活を始めてもう暫く経つ」
人の脳から生まれる感情は風に揺れる手水の水のようなものだ。荒波のように高い波の時も、広大な湖のように凪いでいる時もある。氷点下ならば凍ることだって。
「仕方がなかったとはいえ、同族を食っていた時の食事の醜さに嫌悪感すら覚える」
雪は上体を起き上がらせて布団から半身だけ出た。弱々しい手つきで布団を押していた。
雅が長い煙管を持ちながら振り返った。
「私はこの屋敷から滅多なことで外出はしない。ここにいるならそれに付き合ってもらうことになる」
赤い瞳が不気味に月光を反射する。
白い髪に赤い瞳。
雅は色素を持たないアルビノの悪魔だった。
このアルビノの貧弱な体のせいで、同族の中では隠密と魅了に能力を振り切るしかなかった。気苦労はとりわけ多かった。
「今の私では、この屋敷の周辺まであやかし共を近づけないので限界なんだ」
和装の袖先から見える手首までの肌が異様に白い。生気が感じられない色気をしているからだろう、雪の視線が手へと向いていた。
雪は肩に羽毛布団を肩へ引っ掛けたまま正座して畏まると、真っ直ぐこちらを見据えて言った。
「俺も、追われる身です。ですから、ここから出られないということは寧ろ俺も望むところなのです」
その真っ直ぐな申し出に、煙管を持つ手に力が籠った。
百萌とは違う素直さ。気を遣うのではなく、本気でそうなのだと不必要な情報なく伝える言動。
雅の脳裏にはこんな状況に一つだけ心当たりがあった。
あれはもう、千年以上も前になるのか。
ふと、彼女の背の温度を思い出し、薄ら寂しい心持ちになった。まだ悲しめることに安堵した。
未だに警戒の色は薄まることを知らないが、薄らとそれとは違う色が混ざり始めていた。
「お前は嫌に人に執着されるだろう」
煙管から煙を吸って、数拍、ゆったりと吐息を吐いた。
「何故それを?......ええ、それはもう。恐ろしい程に」
「それが、神が定めた"才能"だと言ったら信じるか」
「神が定めた才能、あの、神が」
煙の登る先を呆然と眺めていた。何故だかこの青年は先程から警戒の色は見せても困惑の色を浮かべない。
普通の人間にとっては非現実的な話をしているというのに、抵抗なく受け入れている。
「望んでもいないのにずっと誰かの執着を向けられるというのは、嫌にならないのか」
あの時、彼女が苦しんでいたことへの問いを、代わりに雪に投げかけた。
雪は布団に縛り付けられたように動かなかった。
ムカデが、玄関先から入り込んで撤退した。
「耐え、がたいです、とても」
悶えながら漏れた、苦しげな声だった。
「そうか」
返事はそれだけで十分だった。
きっと彼女も、そうだった。
静まり返った廊下の板張りが段々と冷えていく外気に呼応し、その身を縮めるように鳴いた。
「安心しろ。悪魔は理の外にある。その才能に靡くこともない」
雪の目が大きく見開かれる。何も縛ることがない者への羨望の眼差し。その、耐え難い悠久の孤独も知らずに。
「うちにいればいい」
「そんな、悪いですよ。拾っていただいたばかりでなく、面倒を見ていただけるなんて」
雅の揺れる瞳を見て、雪の拘束が解けた。
「......ありがとうございます」
彼を布団に縛り付けていたものがぷつりと切れ、膝立ちのまま一歩進む。
雪の温かな手が、雅の生気のない手を取ろうとした。
それを迷いなく振り払う。
本能的な悪魔の魅惑は、こんな子供相手でも効果が出てしまうのか。全くの無意識だった。
耐え難い乾き、空腹感、衝動。それらを盛土をするように無理矢理大きな理性で埋め立てる。
危ない。気づけば人間を魅了し、食ってしまいそうになる。恐ろしく嫌な寒気が背中を駆け回る。
「私に触れるな」
振り払われた手を呆然と見つめながら雪が言う。
「あれ、俺は何を......すみません」
目の前青年はまだ幼さを残していた。人恋しい感情でも増幅させてしまっただろうか。ため息と共に吸い終えた煙管を廊下と寝室の境に引っ掛けて置いた。
「私の能力に当てられすぎている。その反応は本心からではない」
「そう、なんでしょうか」
雪は手を引っこめると、欠伸を噛み殺しながら布団に戻った。耐えきれなかった瞼が閉じられる。
よほど眠気が酷かったらしい。
しばらくすると、規則正しい寝息が聞こえ始めた。
煙管をしばらくくゆらせていた。
台所の方に、小さく人の気配がする。
段々と寝室に近づいてくる。足取りには迷いがない。
音を立てない歩き方が身に染み付いている。
ほんの僅かに寝室の襖が開かれて、小さな隙間から栗色の瞳が覗き込んだ。
「あれ、まだ寝てなかったの?」
「入りなさい、廊下は冷える」
「はぁい」
中の暖かな空気が漏れ出ないように少しだけ襖を開けて、滑り込むように中へ入ってくる。廊下を歩いて足が冷えるのか、雅の布団を踏んでその端へ座り込んだ。布団に入ってくる気はないらしい。
百萌はいつもそうだ。甘えても拒絶されないとわかっていて、甘えられない。百萌は雅から漏れる、ほんの少しの色を見破ったようで、嫌な顔をして膝を抱えた。
「うわ、ずるい。僕には少しもくれないのに」
「お前は才能がないんだ、諦めろ」
「あはは、わかってても羨ましいの」
雪を流し見るように目を滑らせている。百萌とはもう住み始めて一年が経とうとしていた。二人の共同生活に一度も衝突がないのは、限りなく百萌の努力のおかげだった。
「......ねぇ、僕も一緒に寝ていい?」
「布団を持ってきなさい」
「はぁい」
その返事はここ最近で一番嬉しそうだった。
暫くすると、百萌はほとんど使っていない自分の部屋から、丸めた布団を抱えて部屋に戻ってきた。
自室を与えているというのに、百萌は親を追いかけるカルガモのようにどこへ行くにも着いてきた。
普段は程よい距離を保って、共にいるべきでないと察すると足早にこの世界ごと出ていってしまう。
逃げる先もないくせに。
「その人となんの話してたの?」
「悪魔のことを少し。こいつの名前は雪になった。今日からここへ住むから部屋を譲ってやってくれ、どうせ使っていないんだろう」
「あは......いいよぅ」
どこか悲しげな顔を浮かべ、布団を敷き終えると、廊下の冷気を吸った温度のない布団へ潜り込んだ。鳥肌が立ったのか、百萌はぶるっと震えていた。
「名前を与えるなんて、珍しいねえ」
「私の能力に当てられていた。こいつが子供だってことを失念してた。子供は耐性がなくて困る」
「子供?もうおっきいじゃん」
「触れようとしてきた。拒否したら引いた」
「あはは、純情だね。十五かそこらの背丈なのに」
雪よりも幼い少女がけらけらと笑っている。
異常なほど回る気遣いに、恨み言ひとつ言わず薬屋を手伝う少女。彼女の周りには、何かを諦めたように黄色の喜びだけが浮かんでいる。
一体何に苦しんでいるのか、どのくらいの度合いなのか、そんなことは色を見れば検討が着いた。それでも、どう手出ししていいのか分からなかった。
百萌はどうしてか雅の能力にも耐性がある。本来ならば、人間のような貧弱な精神では雅の能力に当てられないはずがないというのに。長く居すぎて混ざったのかもしれない。
それとも魅了されることすら許さないという神の意思か。
根深すぎる孤独の才能が、人と百萌とを大きな崖で隔てている。
もし人の道から落ちそうになったら、頼られたら助ければいい。そう思って雅も寝床に潜り込んだ。
小さな体温が、拳一つ分だけこちらへと寄った。