ホーム百味堂5話
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5話

5、朝、つらら

 ――――――――――――

 薄ぼんやりとまぶたの裏が血管を透かして赤く染まる。
 ガラスになった障子の下部から青く澄んで真っ白い朝日が煌々と差し込んでいる。

 次に鼻腔をくすぐる暖かな香り。台所からなにやら物音がする。母が朝餉でも作っているのだろうか。

「おかあ、さま?」

 寝ぼけ眼を擦って布団から這い出る。
 
 見知らぬ天井。
 隣の布団で丸くなって眠る少女。
 長い襟足がバラバラな方向を向いて広がっている。

 寒空の下を雀が飛んで行った。

「いっ、」

 立ち上がろうとして、転倒した時に思い切り打った掌と腰骨がずくりと傷んだ。そこでようやく頭が現状を理解する。

「あれ、起きたの? 雪さん」

 その声で起こしてしまったのか、はたまた習慣か。
 ふああ、と欠伸をして少女が目を覚ます。その背丈や幼い顔から自分より幾つか幼く見える。

 『せつさん』

 一瞬誰のことを呼んだのかわからなかった。昨日貰ったばかりの名だ。昔の名は口に出してはいけない。この身が狙われるからと口酸っぱく言われていた。

 確かこの少女は熱で魘されていた時に水差しを持ってきてくれて、雅という悪魔に拾われ......。
 
 本当に何事もなく朝を迎えたというのだろうか?
 焦る内心を他所に平静を取り繕う。

「おはようございます。昨夜は水差しをありがとうございます、お名前を聞きそびれてしまって」
「ううん、雑務が僕のお仕事だからさ。百萌って呼んで」

 伸びをして起き上がると小さな体で器用に布団を三つ折りにし、部屋の隅に寄せる。雪もそれを真似て布団を三つ折りにする。従者がやってくれていたから、こんなことをしたのは初めてだった。
 暖房の効いた部屋でも畳はひんやりしていて、掴んだ布団の縁は冷気をたっぷり含んでいた。

「百萌さん、よろしくお願いします」
「敬語やめてね、僕の方が年下だし」
「はい。じゃなくて、うん」
「よしっ、朝ごはんがもうすぐできるよ、行こ」
「うん」

 廊下を反時計回りに歩く。風呂場と脱衣所を横切るとその次は居間。
 昨夜はよほど冷えたのだろう。中庭に面する庇から細く、千歳飴程度の氷柱が数本下がっている。

 ぽちゃん。

 その先端から水滴が落ち、手水に跳ねる。
 音がするのと同時に百萌が居間の襖を開けた。
 この少女は一体何者なのだろうか、仕草があまりに大人びている。

 それに、雅は自分を悪魔だと言っていた。
 
 悪魔は知識として知っている。絶対に契約などしてはいけない種族、それと共にある少女。もしかしたら彼女も人間では無いのかもしれない。
 
 先に居間で朝餉の準備をしていたらしい雅が最後の皿を並べ終えた。雪の分の茶碗が無かったからか、副菜を盛り付けるような皿が茶椀代わりに置かれている。

「おはようございます」
「おはよう、朝餉ができている」
「やったあ、雅のごはん久々だ」

 年季の入ったちゃぶ台の上にだし巻き玉子と味噌汁、漬物に梅干し。お櫃から白い湯気が上がっている。

 手入れが行き届いている古びた家具たちは、乾燥した肌を潤すようにその湯気を吸っていた。
 
 浮かれた百萌の声色に雅の眦がほんの少し柔らかくなるのに気づいた。雪より幼い少女がここまで安心しきっているこの空間を、受け入れてもいいのだろうか。
 
 皆で手を合わせて食事に手をつける。

「明日になってしまうが買い出しに行く。雪もついてきなさい。お前の和服や生活用品を揃えなければ」
「何から何まで、ありがとうございます」
「僕の部屋空けといたから使っていいよ〜、この部屋の隣ね、風呂場とは逆の方」
「そんな、部屋を貰うわけにいきませんよ」

 箸を手元において、背筋を伸ばして言う。ただでさえここに匿ってもらえて感謝しているというのに、先住していた百萌の部屋を貰えるはずがない。

 部屋を与えるなど、雅はどのくらいの期間雪を匿うつもりなのだろうか。
 
 それに、部屋がなかったら彼女はどうするのだろうか。そんな心配を汲み取ったように百萌は口を開く。

「僕は雅の部屋か調剤室で寝るからいいよ、それに、僕は昼間ほとんど"こっち"にいられないからさ」
「"こっち"、とは?」
「ん〜と、もう一個世界があってさ、僕の本物の肉体はそっちにあるの。だからここは僕にとって夢の中の世界」

 意味わかんないよね、と百萌は最後のだし巻き玉子のひと口を頬張りながら呑気に言う。
 とても嘘を言っているようには見えないが、だからといって咄嗟に信じられる内容ではなく、どうにか理屈立てようとした頭がぐるぐると回っている。
 箸にもう一度伸ばそうとしたが、手が動かなかった。

「これが消えるところを見れば、多少は信じる気になる」
「そうかも。今日も八時になったら一旦消えるよ!向こうで朝ごはん食べなきゃ」
「でも今ご飯を食べているでしょう?」
「こっちで食べた分はあっちの世界に持っていけないの。夢の世界で食べたものは現実で食べられないでしょ?」

 さも当然のことのように言ってのけるこの空間の異質さに頭がくらくらした。昨日まで信じていた常識が音を立てて崩れていくのを感じる。
 
 元々人間の居住区とあやかしの居住区の境界付近に住んでいたし、あやかしが存在することを知識として知ってはいてた。しかし、実際に悪魔を目にするのは初めてだった。
 
 父があやかしについて、子守唄のかわりに語って聞かせてくれていた。物心着いて文字が読めるようになってからは雪自身も文献をたくさん読んでいた。
 
 だが、百萌に関してはそういうものからも逸脱しているような気がする。

「ここにいれば、慣れるんですかね」

 理解を諦めて再び箸に手を伸ばす。だし巻き玉子の最後のひときれを口に放り込んだ。
 
 出汁がよく出ていて甘めの卵焼き。
 雅は案外甘党なのか、それとも百萌の好みか。
 
 悪魔は人間と同じ食事を摂る必要は無いはずだ。どうしてこんな手間をかけて食事の習慣を律儀に守っているのだろうか。
 
 よくわからない家に、悪魔らしくない生活を送る悪魔、加えて二つの世界を行き来する少女。
 
 考えれば考えるほど泥沼にはまっていく。


「すみません、どなたかいらっしゃいませんか!」

 調剤室の方から声がする。恐らく薬屋の客が来たのだろう。調剤室には十五尺程の大きな出窓があって、そこを開け放つとカウンターのようになるようだった。薬屋の売り買いはそこで行っているらしい。

「はぁ、急患だろうか。営業時間は十八時からと書いてあるのに」

 雅は面倒そうにため息をついた。

 先に食べ終わった百萌が、ごちそうさまっ!と居間を飛び出して行った。どうやら接客はめっきり彼女の仕事らしい。
 
 その方がいい。出会って一日も経っていないが、雅という悪魔の不器用さはひしひしと伝わってきていた。
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 薄ぼんやりとまぶたの裏が血管を透かして赤く染まる。
 ガラスになった障子の下部から青く澄んで真っ白い朝日が煌々と差し込んでいる。

 次に鼻腔をくすぐる暖かな香り。台所からなにやら物音がする。母が朝餉でも作っているのだろうか。

「おかあ、さま?」

 寝ぼけ眼を擦って布団から這い出る。
 
 見知らぬ天井。
 隣の布団で丸くなって眠る少女。
 長い襟足がバラバラな方向を向いて広がっている。

 寒空の下を雀が飛んで行った。

「いっ、」

 立ち上がろうとして、転倒した時に思い切り打った掌と腰骨がずくりと傷んだ。そこでようやく頭が現状を理解する。

「あれ、起きたの? 雪さん」

 その声で起こしてしまったのか、はたまた習慣か。
 ふああ、と欠伸をして少女が目を覚ます。その背丈や幼い顔から自分より幾つか幼く見える。

 『せつさん』

 一瞬誰のことを呼んだのかわからなかった。昨日貰ったばかりの名だ。昔の名は口に出してはいけない。この身が狙われるからと口酸っぱく言われていた。

 確かこの少女は熱で魘されていた時に水差しを持ってきてくれて、雅という悪魔に拾われ......。
 
 本当に何事もなく朝を迎えたというのだろうか?
 焦る内心を他所に平静を取り繕う。

「おはようございます。昨夜は水差しをありがとうございます、お名前を聞きそびれてしまって」
「ううん、雑務が僕のお仕事だからさ。百萌って呼んで」

 伸びをして起き上がると小さな体で器用に布団を三つ折りにし、部屋の隅に寄せる。雪もそれを真似て布団を三つ折りにする。従者がやってくれていたから、こんなことをしたのは初めてだった。
 暖房の効いた部屋でも畳はひんやりしていて、掴んだ布団の縁は冷気をたっぷり含んでいた。

「百萌さん、よろしくお願いします」
「敬語やめてね、僕の方が年下だし」
「はい。じゃなくて、うん」
「よしっ、朝ごはんがもうすぐできるよ、行こ」
「うん」

 廊下を反時計回りに歩く。風呂場と脱衣所を横切るとその次は居間。
 昨夜はよほど冷えたのだろう。中庭に面する庇から細く、千歳飴程度の氷柱が数本下がっている。

 ぽちゃん。

 その先端から水滴が落ち、手水に跳ねる。
 音がするのと同時に百萌が居間の襖を開けた。
 この少女は一体何者なのだろうか、仕草があまりに大人びている。

 それに、雅は自分を悪魔だと言っていた。
 
 悪魔は知識として知っている。絶対に契約などしてはいけない種族、それと共にある少女。もしかしたら彼女も人間では無いのかもしれない。
 
 先に居間で朝餉の準備をしていたらしい雅が最後の皿を並べ終えた。雪の分の茶碗が無かったからか、副菜を盛り付けるような皿が茶椀代わりに置かれている。

「おはようございます」
「おはよう、朝餉ができている」
「やったあ、雅のごはん久々だ」

 年季の入ったちゃぶ台の上にだし巻き玉子と味噌汁、漬物に梅干し。お櫃から白い湯気が上がっている。

 手入れが行き届いている古びた家具たちは、乾燥した肌を潤すようにその湯気を吸っていた。
 
 浮かれた百萌の声色に雅の眦がほんの少し柔らかくなるのに気づいた。雪より幼い少女がここまで安心しきっているこの空間を、受け入れてもいいのだろうか。
 
 皆で手を合わせて食事に手をつける。

「明日になってしまうが買い出しに行く。雪もついてきなさい。お前の和服や生活用品を揃えなければ」
「何から何まで、ありがとうございます」
「僕の部屋空けといたから使っていいよ〜、この部屋の隣ね、風呂場とは逆の方」
「そんな、部屋を貰うわけにいきませんよ」

 箸を手元において、背筋を伸ばして言う。ただでさえここに匿ってもらえて感謝しているというのに、先住していた百萌の部屋を貰えるはずがない。

 部屋を与えるなど、雅はどのくらいの期間雪を匿うつもりなのだろうか。
 
 それに、部屋がなかったら彼女はどうするのだろうか。そんな心配を汲み取ったように百萌は口を開く。

「僕は雅の部屋か調剤室で寝るからいいよ、それに、僕は昼間ほとんど"こっち"にいられないからさ」
「"こっち"、とは?」
「ん〜と、もう一個世界があってさ、僕の本物の肉体はそっちにあるの。だからここは僕にとって夢の中の世界」

 意味わかんないよね、と百萌は最後のだし巻き玉子のひと口を頬張りながら呑気に言う。
 とても嘘を言っているようには見えないが、だからといって咄嗟に信じられる内容ではなく、どうにか理屈立てようとした頭がぐるぐると回っている。
 箸にもう一度伸ばそうとしたが、手が動かなかった。

「これが消えるところを見れば、多少は信じる気になる」
「そうかも。今日も八時になったら一旦消えるよ!向こうで朝ごはん食べなきゃ」
「でも今ご飯を食べているでしょう?」
「こっちで食べた分はあっちの世界に持っていけないの。夢の世界で食べたものは現実で食べられないでしょ?」

 さも当然のことのように言ってのけるこの空間の異質さに頭がくらくらした。昨日まで信じていた常識が音を立てて崩れていくのを感じる。
 
 元々人間の居住区とあやかしの居住区の境界付近に住んでいたし、あやかしが存在することを知識として知ってはいてた。しかし、実際に悪魔を目にするのは初めてだった。
 
 父があやかしについて、子守唄のかわりに語って聞かせてくれていた。物心着いて文字が読めるようになってからは雪自身も文献をたくさん読んでいた。
 
 だが、百萌に関してはそういうものからも逸脱しているような気がする。

「ここにいれば、慣れるんですかね」

 理解を諦めて再び箸に手を伸ばす。だし巻き玉子の最後のひときれを口に放り込んだ。
 
 出汁がよく出ていて甘めの卵焼き。
 雅は案外甘党なのか、それとも百萌の好みか。
 
 悪魔は人間と同じ食事を摂る必要は無いはずだ。どうしてこんな手間をかけて食事の習慣を律儀に守っているのだろうか。
 
 よくわからない家に、悪魔らしくない生活を送る悪魔、加えて二つの世界を行き来する少女。
 
 考えれば考えるほど泥沼にはまっていく。


「すみません、どなたかいらっしゃいませんか!」

 調剤室の方から声がする。恐らく薬屋の客が来たのだろう。調剤室には十五尺程の大きな出窓があって、そこを開け放つとカウンターのようになるようだった。薬屋の売り買いはそこで行っているらしい。

「はぁ、急患だろうか。営業時間は十八時からと書いてあるのに」

 雅は面倒そうにため息をついた。

 先に食べ終わった百萌が、ごちそうさまっ!と居間を飛び出して行った。どうやら接客はめっきり彼女の仕事らしい。
 
 その方がいい。出会って一日も経っていないが、雅という悪魔の不器用さはひしひしと伝わってきていた。
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