6話
6、溶ける
飛び出して行った百萌の背中を見送る。
雪はふと、薬屋の仕事がどのように行われるのか見てみたくなった。
感情を食べる、と言っていたが、何か関わりがあるのだろうか。一体何の薬を取り扱っているのだろうか。
一度考え出すと、この家に対する疑問が次々と浮かんできた。
「雅さん、百萌の仕事ぶりを見てきてもいいですか」
「なぜ」
「どんなお仕事か、とても気になるので」
「あれが気になるか、変わり者だな」
行ってこいと顎をくい、と上げて合図する。
「ありがとうございます」
雪はひとつ頷いて、目の前のからになった皿に手を合わせて百萌の歩いた廊下を辿った。
「いらっしゃい、どうしたの?」
気さくな百萌の声が調剤室から聞こえてくる。襖を開けて中を見ると、中年の女性が焦った様子で開かれた番台に手をついていた。
「お願い、また旦那に対する"怒り"を鎮めて欲しいの。もう、もうどうにもならないのよ!」
「まあまあ、お清さん落ち着いて。そういうことなら雅を呼んでくるから」
「ええ、ええ。早くしてちょうだいね?」
とたた、と百萌が駆け足で居間にいる雅を呼びに行く。
百萌が『お清さん』と呼んだ中年女性は少しこけた頬に、主婦らしいカサカサした手をしていた。取り乱しているのかざっくばらんに簪に巻かれた髪が散らばっている。
女性は雪に気づいて、咄嗟に様相を取り繕おうとしてその簪を抜き、手癖で髪を整えた。
「あら、新しい子?」
「ええと、はい。昨日からここで世話になることになりました」
「まあ、ここは突然子供が増えてばかりね」
「百萌さんも突然?」
「ええ、そうよ。一年前くらいだったかしら?雅さんってあんなんだけど面倒見はいいから安心したらいいわ」
清田は余裕のない笑みを浮かべながら、気丈に声を張り上げていた。何とか平然を装って雪を気遣おうとしているのが伝わってくる。
百萌や雅との面識が濃いようだ。こうして営業時間外に尋ねてくるのは珍しくないのかもしれない。清田は簪を帯の隙間に挟み込む。その帯は清田家のものだろう家紋を象っていた。
「ここは長いんですか」
「かれこれ五年は通ってるわね」
ため息を着くと、ひどく苛立たしげに語り出す。
「さっき聞かれてしまったけど、旦那の不倫と酒癖の悪さで怒りが止まらなくて、離婚もさせてもらえないからここで怒りを"取って"もらってるの」
「それは、お辛かったですね」
いつの時代も両親の快諾なく離婚に踏み切れる夫婦ばかりではない。もし、子供がいるとすればこのくらいの女性なら子供は思春期真っ只中かもしれない。色々と、離婚できない理由があるのだろう。
「雅先生は本当に腕のいい薬屋さんよ」
少し表情が緩んで、再び雪を安心させるように優しい声色で言った。母が大丈夫よ、と無理して言う時の声に似ていた。胸がぎゅうと苦しくなる。
雅が襖を開け調剤室に入ってくる。
入口付近に立ち止まって話していた雪の肩にすれ違いざまぽんと一度手を置いて、交代の合図を送ってきた。
「じゃあ清田さん、怒りを取りますよ」
「お願いします、雅先生」
雅は右手を清田の左肩に置き、目を瞑る。
朝飛び出して凍えた雀が鳴きながら巣へと帰ってきた。そうかと思えば、すぐに再び去っていく。
虫や、動物や、全ての生き物の気配が、恐れをなしたように雅を中心として消えていく。
音が消える。
冬だと言うのに、妙な緊張感に手汗が滲んだ。
犀利な頭が警鐘を鳴らす。
チリン。
世界が静寂に包まれた中、切っ先のような音が響いた。
雅が目を開く瞬間、確かに聞こえた小さな鈴の音。
「終わりましたよ」
また、雀が戻ってきた。きーん、だかきゅう、だか分からない動物の鳴き声がした。世界に色が戻ったような、時計が再び動き出したような感覚。
そこでようやく、息が止まっていたことに気がついた。無理やり止められていた血液がどくどくと早く体内を駆け巡りだす。
「ふぅ、先生ありがとうございます。いつもの事ながら、憑き物が取れたような心地ですわ」
「そうか、それなら良かった」
「またお願いしますね、先生」
雅は黙り込んだ。
清田は満足そうに微笑むと、それでは、と百味堂を後にした。立ち去っていく紫色の上品な着物に、黄色の控えめなレースがついた帯を合わせた婦人。簪についた花の装飾が揺れる。
その背にはもう、番台を叩きつけるような怒りは微塵も感じられなかった。
ゴホッゴホッ、ゴホッ。
雅が番台に手をつき、思い切り咳き込んだ。
「今回のは、根深、かったな」
百萌が駆け寄って思い切り背を叩く。握りこぶしの半分程の、澄んだ赤黒い宝石が雅の手に吐き出された。
宝石には血が付着している。鋭利な角をしたその宝石が雅の喉を引っ掻いたのだろう。
薬屋の仕事ぶりと、満足して帰る婦人の様子に気を良くしていた雪の気持ちがさっと冷めていく。
「大丈夫、ですか、喉が」
「問題ない」
「でも、血が」
「......人間の基準で物を語るな」
百萌は心配する様子もなくその宝石を受け取り、慣れた様子で流し台で宝石についた血液を洗い流す。
「雅は好きで人間の形をしてるだけだし、大丈夫だよ」
雪に背を向けたまま、沈んだ声で言った。雅はちろ、と舌をのぞかせ、唇の端を舐めると、何かを考え込むように顎に手をやった。
今この屋敷で雪だけが日常から置いてけぼりにされている。
「慣れた方がいいよ、いつもの事だからさ」
カチャリと番台の上の扉に雅が錠をかける。
何度か咳払いをして声のピッチを調整した後、雅が珍しく柔らかい顔を浮かべる。その目が心配して駆け寄った雪の視線を捉えた。
「どうだ、私の仕事は」
「......すごく、立派でした」
口にした瞬間、己の口にした言葉を理解したようにじんわりと心が温まるのを感じた。
あの女性は今回の施術で気が楽になり、また日常を送ることができる。怒りを忘れ、平穏に。
なんと、便利な能力か。
この、家族を失った感情が二つに無理やり引き裂かれるような喪失感も、彼には見えているのだろうか。見えているに決まってる。
「雅さん」
「ダメだ」
「え?」
「それは、お前に必要な苦しみだろう」
図星を突かれて固まった。心の中が筒抜けになっている気分だった。
雅さんってあんなんだけど面倒見はいいから、という清田の言葉が頭をよぎる。
「......もうしばらく、抱えておきます」
「その方がいいだろう」
なぜか、つららが溶けた雫のように、涙が一粒あふれた。