7話
7、木枯らし
「泣くことはないだろう」
「すみません、悲しいんじゃないんです」
「そんなことはわかっている」
雅という男は、たまにこちらの感情を知ったような口ぶりをする。
もし、彼が人の心を読めるような力を持っているなら、今雪の心は何を抱いているのだろうか。
自分でも分からない。
ただ根深い喪失感と、安堵と、悲しみと、信頼と......多種多様な感情が心に渦巻いていた。
「じゃあ、そろそろ行くね。叱られちゃう」
時刻は八時半を指していた。雅がああ、と返事をする。百萌はにこやかに手を振って、瞬きをする間に消えた。影も形もなかった。流し台には彼女が洗浄した宝石だけが残されている。
日が登って、目を刺す真っ直ぐな光が窓を通ることは無くなった。街がそろそろ動き出す。
「本当に、こんなことが」
「平行世界、というんだったか」
「なぜ、彼女はこちらの世界とあちらの世界を行き来できるんですか?」
「あれだって好きでやってるんじゃない。私に無理やり連れてこられて仕方なくだ」
「無理やり......」
どうして彼女だったんですか、なぜ彼女はあんなに貴方に懐いているんですか。嫌がりはしなかったんですか。
質問攻めにしても雅は一切質問に答えない。
ただ感情の籠っていない目で雪を見つめるだけ。
目が僅かに細まる。
「あれは、私に必要なのだ」
放射冷却の冷たさを抜けた部屋で、ロウソクが吹き消された。
翌日の午前中、三人は買い物に来ていた。どうやら百萌も今日はあちらの世界で"休日"らしく、昼までは寝ていられると買い物についてきた。
「あっちにいても本読むかテレビ見るか、ゲームだし」
「てれびってなんなんですか」
「へぇ、こっちにはないんだ。んーと、画面の中で撮影した動画を何度でも見返せるの」
「便利ですね」
百萌は「僕はこっちの世界の方が好きだけどね」と言いながら、店頭に並ぶガラス細工に目が釘付けになっていた。それに気づいた雅が立ち止まって、江戸切子のグラスを手に取った。
「なかなか上物だ」
「あは、雅もガラス好きだよね」
「感情の石より余程静かで心地いい」
「雅さんはあの宝石からなにか感じるんですか?」
「感情が流れ込んでくる、厄介だ」
雅は店主を呼びつけると、江戸切子のグラスを三つ悩むことなく梱包させた。よく研磨された宝石のように、内側にキラキラと虹色の光を反射している。
雪が礼を言えば、江戸切子に目線をやったまま、柔らかく笑った。
心臓がどく、と沸き立つのを感じた。
『それはお前の本心ではない』
一昨日の雅の言葉が脳裏に響く。深呼吸して周りを見れば、店主やその奥方までもが雅を見ていた。彼が普段外に出ない理由を理解する。
周囲の自分と同じような反応の人々を見て、急激に煮沸された心が冬の風で冷却されていく。
「ありがとう、また来よう」
「へぇ、ご贔屓に。お兄さん男前だねえ」
「世辞は足りている」
店主の声がけも無視して、足早に店を立ち去る雅の後ろを百萌が続いた。百萌は呆然としていた雪の手を取った。
「いこ」
寒々しい風が吹いているというのに、彼女の手は暖かい。
「雪さん、雪さん、食べたいものがあったら今のうちに言った方がいいよ」
「百萌は何が食べたいんだい」
「うーん、団子かなあ。あんこのやつ」
手を繋いだ百萌と雪が楽しげに会話していると、それを聞いていたらしい雅が唐突に振り返った。和服の袖が揺れる。
「甘いものばかり食べると糖尿になるぞ」
「こっちでは気にしなくていいじゃん」
「いつものところでいいのか」
「うん!」
いつものところ、がどこを指すのか雪には皆目見当もつかないが、ただ小さな暖かい手を優しく握ってついて行く。
五分ほどすると、古い長屋のような店が立ち並ぶ通りに入り込み、店先に和傘と長椅子が置いてあるこぢんまりした和菓子屋に到着した。
「おばちゃん、いつものあんこのちょーだい!」
百萌が雅から受け取った小銭を持って声をかけると、厨房でなにやら作業をしていたらしい和菓子屋の女房が出てくる。手に持ったお盆には出来たてだと思われる練り切りが数個乗っていた。
「あら〜!百萌ちゃんじゃないの。お久しぶり。今日は何本買ってってくれるの?」
「とりあえず三本ちょうだい!」
「私はいらない」
「二本は僕のだもん」
快活に笑った女房はあいよ、と封筒のような包装紙に三本の、こしあんが乗った串団子を入れ手渡してくれる。
「お代は二本分でいいよ、そっちの男の子は初めてでしょう?」
「初めまして、雪です」
「あら、綺麗な顔してるわね。うちの店『きくや』って言うの。よろしくね」
三人は長椅子に座って一息つきながら、必要なものを記した覚え書きに線を入れて、残りのものを確認した。
「あとは夕食の材料だけだね」
「今日は何を作るんですか?」
「何が食いたい」
「お魚、ですかね」
「分かった、今日はほっけでも焼こう」
甘い団子を食べていると、どうも気が緩んでしまう。甘いものや娯楽を節制されて生きてきた雪にとって、何気なく甘味を買ってその場で食べるという経験は物珍しかった。悪い気はしない。
団子を半分ほど食べた時、道の途中でこちらに気づいた中年の男が怒りの形相で近づいてくる。
血の気が多そうな男に気後れした雪は咄嗟に逃げようとしたが、それより早く、男は雅の胸ぐらをつかみあげた。風に木枯らしの匂いが乗っている。
「てんめぇ!俺の女房殺しやがって!悪魔風情が!」
「私のやり方に文句があるなら聞こう」
雅は一切動じず、冷ややかな目線で男を見下げる。その様子に男の手の力が緩みかけて、再び血管を浮き上がらせながら強く力を入れた。雅の踵が浮いている。手は無抵抗にだらりと下げられたままだ。
男の服装を見れば飾り帯に清田と同じ家紋が施されていた。どうやら昨日訪れた彼女に何かあったようだ。
「あいつが死んだせいで息子を世話すんのは俺だけだ!悪魔と会っているなんて、嫌な予感はしたんだ!」
男は激昂してこちらの話もろくに聞けないように見えた。どうしようもない男だ。
それにしても、清田さんが、死んだ。
即座に理解できなかった。
彼女が言っていた話が本当だとしたら目の前の男は妻子がありながら女にうつつを抜かしたたわけじゃないか。
それに酒癖の悪さ、全部自分が撒いた種じゃないか、と雪の真っ直ぐな正義感が言う。
息子の世話に手を焼いているようで、普段ろくに子供とも関わりを持っていなかったに違いない。
息を吸う。絶対にダメだと分かりながらも、正義感を押し止められなかった。こういう時雪は衝動的に言葉を発してしまう悪癖を止める術を持ち合わせていなかった。
「あなたの酒癖の悪さや不倫がなかったら、結果は違っていたんじゃないですか」
男の眉がピクっと動いた。瞳孔の開ききった不気味な視線が、あの日追ってきた妖を彷彿とさせる。妖よりも人間の方が、よっぽど化け物じみていると雪は知っている。
その恐ろしい目が雪を視界の中心に捉えた。
「ああ?」
「清田さんに雅さんがしていたことは、怒りを取り除くことだけですよ。俺その現場を見ていましたが、不当な契約には一切見えませんでした」
雅が驚いたようにいつも気怠げな目を僅かに見開いた。