8話
8、落ちる
「うるせぇんだよガキ!俺は悪魔に聞いてんだ」
胸ぐらを掴んだままの男が顔だけを雪に向けて激昂する。
びくっと雪の肩が揺れる。正しいことを説いて相手が激昂してくるのは、怒りとか、負け惜しみとか、そういうものなのだと理屈で納得はできる。しかし理解はできなかった。
唾液が飛散する。
避けるように引き下がった。
「なんとか言えよ!」
男が再び雅に向き直る。
やけに冷静な雅の、普段と何ら変わりのない声が響く。
「今しがた雪が全て説明しただろう」
こんな至近距離になってもなお、男は雅の視線の中心に捉えられていない。
日が高い位置にあった。これ以上上がりようがない。
男は鬼の形相で雅に詰め寄る。
「俺の女房が自ら望んで悪魔に頼ったって言うのか」
「先程からそうだと言っている」
「そんなわけ、操られてたに決まってる!」
「そう言い切る根拠はあるのか」
「あいつの事は」
男が一瞬口ごもる。
「俺がいちばん分かってんだ」
雅の視線は途端に冷ややかなものに変わる。
「そうか」
胸ぐらを掴む手の手首を、幼子の手を捻るように易々と退かす。
「清田さんの持つ"怒り"にお前さんの記憶が乗るほどに恨んでいることにも気づかないか」
一人、二人。
周りに野次馬が集まって人だかりになりつつある。これ以上騒ぎになるのは嫌なのか、眉間にシワが寄っていた。
「それはもう酷い記憶だった。朝帰りの日々に香水の匂い、参観日に自分しかいない寂しさ、作った夕飯を捨てる侘しさ、何も知らないだろうが」
雅は淡々と、感情の乗らない声で事実だけを伝えていた。緊迫した空気に、言葉を発することができず拳を握った。
「とにかく、」
冷水をかけられるような視線。
再び胸ぐらに掴みかかろうとしてしり込みした。
男の勢いが食われている。
「私は"仕事"をしただけだ」
野次馬の喧騒が消える。
現実から切り離されたような静寂が訪れる。
「もう少し、自身の素行を振り返ったからものを言え」
決して大きくはない雅の声が嫌に響いた。
勝敗は明らかだった。それでも男は食い下がった。
「女房は、あいつは、何を代償にしてたんだ......」
その視線はもはや懇願に近いものだった。
群衆が固唾を飲んで次の言葉を待つ。
段々と地表の熱が奪われ始める。
ぱたり。ぽたり。
水滴が落ちる。
「 寿命だ 」
道端に落ちている石を指され、これはなんだと聞かれたような、業務的な温度。
溶け落ちた氷柱が、雪の心の奥を突き刺した。
痛い、痛い痛い痛い
信じたく、ない。
だってあんなに誇らしそうに仕事をしていた。
だって喉に傷を追ってまで清田さんを楽にしていた。
それが招くものが、死?
悪魔という種族を。
一瞬たりとも信用してはいけなかったのだ。
「また、お願いしますね先生」
清田の別れ際の言葉。
雅がまた、に返事をしなかった理由は。
喉が震えて声が出なかった。
だって今、雪はこの悪魔を庇って遺族を苦しめて。
呼吸が浅くなった。
正しく生きろと、まっすぐ生きろと育てられた頭が招いた結果を全て否定したがっている。
急に手先が冷える感覚を思い出した。
両親の無惨な死体が目の前にあった。
雅を一目見た時の、ぐらついた感覚が逆再生された。
信用、すべきではなかった。
なのに、
抱き抱えられ、階段を降りた時の温度がまだ身体中を回っている。
雪のしてきた行動が、どこまで自分の意図したものだったのか分からなくなった。
全部、全部、全部、魅了されて狂っていたなら。
――――清田さんだって、望んで契約したとは、
全身の毛が粟立った。
真冬だと言うのに冷や汗が止まらなかった。
一瞬、時間の進みが止まった。
そんな外界を一切気にすることなく、雅は面倒くさそうに口を開いた。
「お前への怒りを息子にぶつけてしまうくらいなら、この感情ごと消したいと願ったのは彼女自身だ」
清田の旦那は、目を限界まで見開き唖然としたあと、その頬を濡らした。
「あ、ああ、あ......そ、んな、」
どさりとその場に膝を着いて、土埃を立てながら惨めにへたり混んだ。
「俺は、俺は、」
傷つけるほど深く爪を立てて、顔を掻きむしる。
半狂乱になっている男。
群衆の幾人かが自傷を止めに駆け寄り、その腕を掴んだ。
唖然として惨状を見つめるもの。
悲鳴をあげるもの。
楽しそうに笑うもの。
きくやの店先は混沌を極めていた。
店主が今日は店仕舞いかと、空気に晒されていた団子の皿を持ち、厨房へと消える。
くぁ、と場違いな欠伸がひとつ聞こえた。
百萌は、食べ終わったあん団子の串を二本持って、手元で弄りながら暇を潰してきた。それを屑籠へと捨てた。
「ねぇ雅終わった? かーえろ」
少し高い長椅子から飛び立って、雅の傍に歩み寄る。
北風が隙間を縫うように群衆の隙間を通り過ぎた。
雅は和服の袖に両手を突っ込んで、日の暮れかかっている空を一瞥したあと、ああ、と呟いた。
「帰ろうか」
二人は元来た道を来た時と同じ速さで歩き出した。
群衆が一人二人と何も言えずに散っていく。
雅が立ち止まって振り返る。
「雪、来なさい」
着いてくるとわかっているかのように、振り返ってまた歩を進めた。
行く宛てなど、もうなかった。
心が、寒い。
もう一度あの温度を。
頭を振った。
足が進む。勝手に進む。
一歩。
二歩。
やめろ、行くな。あれは悪魔だ。
三歩。
四歩、五歩。
気が付けばその背の方向へ駆けていた。
酷く冷たく冷えた体を温め、暖をとらせてくれる場所を、あの家の他に知らなかった。
他はもうみんな、なくなってしまった。
駆け寄って気づく。
百萌の手が震えていた。
家に帰るまで誰も口を聞かなかった。
徒歩十五分ほどの帰路がやけに長く感じた。
再び、あの家に立ち入ることが、一体何を意味するのか全員が分かっていたから。
「たっだいま〜」
結局、何も言えないまま戸を跨いだ。
がらりと玄関の引き戸が開けられる。
「なぜ逃げなかった」
肩が揺れた。
一度は安堵したその声が恐ろしい。
「なぜでしょう......自分でも分かりません」
下駄を下駄箱に入れながら、所在無さげに視線を揺らした。中庭に面した廊下で、三人は停滞する。
百萌だけは何かを察したように調剤室へと消えた。
「治療をした時に"混ざり"すぎたのか」
今の自分の感情が、分からなかった。
雅は大きなため息をついた。
「どういう、ことですか」
妙な枯渇感が喉を襲っていた。
団子を食べても、なぜか今までのように満たされぬ空腹を感じていた。
嫌な予感がした。
この先の言葉を聞きたくない。
向き合っていた赤い目を食い入るように見つめた。逸らしたくても逸らせない引力があった。
百萌が縁側に出たのか、きい、と床が軋む音が遠くから聞こえた。
「お前はもう、完全な人間ではないらしい」
ほら、これを食べてみなさい。と黄色い、花の形をした飴細工のようなものを巾着から取り出す。
柔く力の抜けた手首を握られ、掌を上に向けられると、その上にそれを乗せられた。
――これは、誰かの寿命と引替えに形になったもの。
吐き気がした。
誰かの人生を喰らってまで生きねばならぬ身体になったことを受け入れられなかった。
「ふざけないでください!俺は、俺はそんな化け物じゃない!」
ざっくりと切りそろえられた顎までの髪を舞わせ、踵を返して寝室へと走った。
襖を閉じ、背中からもたれ掛かる。
「嘘だ、そんなわけない、俺は、人間だ」
かちっかち、と震える歯。
感覚が無くなるほど冷えた指先。
歪む視界。
否定したい。否定したいのに、握りこぶしの中に閉じ込められた宝石を、手放すことができなかった。