9話
9、乾き
胸を抑える。
雅へ怒鳴りつけてからもう三度、日が登り、沈んだ。
腹が減った。
食事は三食食べている。
その瞬間は空腹感が紛れるし、胃の容量的には満腹感がわかる。
でも、足りない。
乾いている。
手元にあった黄色い宝石を見る。
三日前はただの宝石にしか見えなかったそれが、たまらなく美味そうだった。
これを、食いたい。
石を? 冗談じゃない
そう思うのに唾液が止まらない。
思わずしゃぶりついた。
「......あまい」
脳が痺れるような甘み。
その味がなくなるのを惜しんで、じっくりと舌の上で溶かした。
一度知ってしまうと抜け出せなかった。
乾きが倍に、倍に。
もっと、と。
命という代償の代わりに形になった、あれらを求めてしまう。思考を振り切ろうとして頭を振っても、まとわりついて離れなかった。
一週間後。
丑の刻の少し前に、雪はとうとう調剤室に忍び込んだ。
襖を開ける。
小さな音すら立てないようにゆっくりと。
僅かに床と擦れる音がする。
肩がビクッと震える。手が止まった。
大丈夫、この程度でバレるはずがない。
眠っている人間の耳に届くはずがない。
荒い呼吸を整えるように深呼吸をひとつ。
僅かに空いた隙間に体をねじ込むようにして調剤室に入る。真っ先に目に入った出窓は南京錠で固く閉じられていた。
細い細い月明かりが差せど部屋は真っ暗で、手探りで戸棚を漁りながら、手についた取っ手を慎重に引く。
カコ、という小さな音すら骨に響いた。
こんなことをしてはいけないと分かっている。
こんなのは盗っ人のすることだ。
分別のある人間のすることじゃない。
そう思っているのに抗えない喉の乾きが手を動かした。
引き出しの中に入っていた宝石の色は闇に紛れてしまっていた。
手触りを確かめたあと、口の中へ放り込んだ。
もう躊躇いは無かった。
「うぁ、にが」
渋柿を食べたような鮮明な苦味だった。
初めて食べる風味だ。辛酸を舐めると言うが、きっとこんな味がする。
この感情の持ち主はさぞ苦労しただろう。
美味くはないのに喉の乾きは収まった。同じ色の宝石は沢山あった。こんな辛さを買いに来る客なんていないのだろう。
「誰だって、幸せになりたいに決まってる」
眉間に皺を寄せながら目を伏せた。
父と母が無惨に殺された惨状と。
匂いと、色と。
幸せになりたいに決まってる。
幸せに。
なんだったかな、幸せって。
その時何故か、百萌の笑った顔が浮かんだ。
空虚だ、何もかも。
自分はこんな人間だっただろうか。
分からない、なにも分からない。
空腹と乾き以外、何も。
そのとき、微かに床が軋む音がした。
――床が、軋む音?
「雪」
突然、背後から声がした。
反射的に目を見開き振り向く。
淡い月光を背に煙管を持つ男。
引き戸を全開に開けて、気怠そうに戸に寄りかかった。
拾われた日の夜と同じ、照らし出された影。
今はただ、ただ恐ろしい。
開け放たれた戸から差し込む、青白い光が醜い己を漂白せんばかりに照らし出す。
嗚呼、視線。
嗚呼、冷気。
見るな、こんな俺を見るな。
見るな、見るな見るな!
......見ないで、ください。どうか。
「あの、これ、は、」
喉仏が上下した。
先程とは違う乾きが喉を襲っていた。
冬だと言うのに身体中の毛穴から汗が吹き出た。
「俺は化け物なんかじゃ!」
ふっ、と雅が三日月に口角を曲げた。
目をずっと細めた。
その姿が、なんとも。
一歩、二歩、
「っ、あ、」
ガクンっ、と力が抜け、硬い板張りに膝をつく。
雅がゆったりと歩み寄り、腕を引いて立ち上がらせた。それから、雪を自分の胸へと凭れさせた。
「馬鹿者、両親に貰った色眼鏡で浮世を見るな。不幸を見るぞ」
震える唇は、しばらく言葉を紡げなかった。
両親から貰った色眼鏡。
なんのことを言っているのか分からないはずなのに酷く心が痛んだ。
雪を支える男の心臓からは、確かに鼓動が一定間隔で鳴っていた。
「おれ、すごく喉が乾いて、ごめんなさい、ごめんなさい」
雪の背を擦りながら、はぁ、とため息をついて煙管の甘ったるい匂いを吹きかけた。
「別に構わない。よりによって懺悔なんて美味くもないものを」
奇しくもその煙が雪を現実へ引き戻した。
口の中の苦味が緩和された気がした。
あの苦い、苦しい味は懺悔だったのか。
酷く苦しい心持ちになって、涙が止まらなかった。
後悔と謝罪が脳を駆け巡る。
「勝手に食べてごめんなさい」
「別に、怒ってなどいない」
雪の呼吸が繰り返される度、その間隔が開いていった。
しばらくするとようやく懺悔の波が引き、目の前がぐらつき揺らぐような感覚が消えていく。
やっと肺を震わせながら強ばった力を抜いた。
「私も説明が及ばなかった」
とんとん、と背中を叩かれた。寄りかかるのはここまでだという合図なのだろう。
胸を軽く押して自分の足で立つ。
あれほど濃かった懺悔はぼんやりと薄れていた。
それがどうも、気味が悪かった。
雅はそれ以外何も言わず、腕を袖の中に入れ、じっとこちらを見ていた。
「酷く、喉が乾いていたんです」
居た堪れなくて言い訳をした。
吸い終わったらしい煙管を横目で流し見て、腕を下ろした。
「そうだろう。一時的に満たされてもすぐに乾く」
「どうすればこの渇きは満たされるのですか」
焦って前のめりになる雪を静止させるために咄嗟に出した雅の爪が頬を削った。
ピリッと小さな痛みが走る。片目を細めた。
痛みを和らげたくて、手で抑えた。
「雪、これを食べなさい」
取り出したのはあの日と同じ黄色い宝石だった。
ただ、少し陰りがある気がした。
「はい」
その黄色い宝石を口に放り込む。
じゅわり、と舌の上で溶けていく。
甘い、甘い。歓喜の感情。
ああ、幸せだ。
そうだ、幸せはこういうものだった。
恍惚とした感情が溢れる心中。
それを冷静な目で見つめる自分の理性が邪魔だった。
全身でこの感覚に浸りたかった。でも宝石が溶けたら終わりだって、それもわかっていた。
ぼんやりと蕩けた目で見上げれば、雅は笑った。
軽い、軽すぎる憐憫の情。
思惑通り、そういう目をしていた。
「ほら、治った」
つう、と傷のあった位置をなぞられる。
「雪、お前はもう、半分人間では無いらしい」
慈しみに似た、知らぬ温度の声色だった。