ホーム百味堂10話
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10話

10、瓶の中
 気付かぬ間に、人ではなくなっていた。人として、この人生を全うするつもりであったのに。

 どうしようもない焦りがしんしんと募る。

 冷たい目の前の男の指先。
 その温度が、現実から切り離されそうな意識をどうにかその場に留めさせた。
 
 手先から抜けた体温が帰ってこない。
 
 彼の手は冷たいとばかり思っていたのに、今は自分の体温と大差なかった。

 目の前の悪魔は初めて微笑んだ。
 なんとも穏やかな笑みだった。

 
 まるで、人間みたいだ。

 
「生きながら眷属になるなど、珍しい」

 聞きなれない言葉が聞こえた。
 どこかで聞いたはず。
 上手く思い出せなかった。
 
「眷属とは、なんでしょうか。それは人に害なすものなのでしょうか」
「害? せいぜい私と寿命を共有する程度だ」
「悪魔に寿命があるのですか?」

 分からないことが多すぎて押し問答になる。口数が少ないこの男は、不思議と対話を嫌ったりしない。
 
 悪魔は基本的に肉体を持たない。高校の種族史で習ったのを覚えている。眷属について聞いたのもあの授業だっただろうか。
 
 午後の眠くなる日差しの中で、しわくちゃの真っ白い髭を蓄えた老父の震える手が、指揮棒みたいに棒を振って教鞭を奮っていた。

 あの時の雪は間違いなくただの生徒だった。

「あるさ、もちろん」

 雅は雪の頬から手を離し、調剤室に入って後ろ手に戸を閉めた。夜半の冷気がぴしゃりと締め出され、体温を奪いながら室内を同じ空気が巡る。

「同族や人、神精を食い寿命を得ているんだ」

 人間に、神に、妖怪に、精霊に。
 この世界の人間たちはそれらを総称して神精と呼んだ。

 分からない。人の命を奪ってまで生きる理由が。
 
「そこまでして生きながらえたいものですか」
「さあ......本能だ」

 答えは呆気なかった。
 
「寿命は強さにも直結する。生命線そのものだ。仕方ない、説明が必要らしい」

 戸棚の上に置いてあるマッチ箱から軽い木の擦れる音がする。

 ジュッ、と擦り火が灯されると、そのかたちのいい手元が顕になった。雅は行灯の油皿を引いて、火種をそこへ移した。
 
 落語の『死神』が頭を過ぎる。灯っているのは蝋燭であって、それが今にも消えそうなわけでもないのに。

 妙に、自分の魂が所在無さげだった。

「私たちのような悪魔は一日に数百と生まれている。その中で生き残るのは片手で足りるくらいだ。なぜだと思う」
「人や、その他種族に淘汰されるのでしょうか」
「惜しいが、違う。私たちは同族を食べて生き残る」

 さっと血の気が引いた。顔面が積雪の如く白くなった。
 
 雪はこの先、悪魔を貪り食いながら生きねばならないのだろうか。

 無為に想像が独り歩きする。
 突発的に吐き気を催して口を塞いだ。

「違う。お前もそうしろと言いたいんじゃない。そのくらい、生命力というのは私たちが生きるのに不可欠なんだ」

 雅はバツが悪そうに目を逸らして立ち上がった。
 小箱から煙草の乾燥した葉を取り出し、丸く丸めながら煙管の先端へと入れる。
 再びマッチを灯した。

 その葉に火をつける。少し火が馴染んだ後、深く煙を吸い込んで天井まである薬棚を燻らせた。

「この煙草もこれで終いだ」
「俺はその香りが得意ではありません」
「私もだ、悪魔の嫌う香りだろうか」

 ふっ、と笑いながら雪を流し見て、甘ったるい匂いをこちらへ吐き出した。軽く咳き込むと、さらに楽しそうに笑窪を深めた。

「私はこう見えて二千年と少し生きている。それに、境界院に所属している八人しか上級悪魔はいない」
「上級とそれ以外では何が違うのですか」

 早く生命力の話を、と急かしたい気持ちをぐっと堪えた。雅はこれまで必要なことしか話さなかった。きっとこれも必要なことに違いないのだと、深く注意を向ける。
 
 雅は質問が飛んでくるとは思わなかったようで口を一文字に結んだ。
 その後、しばらく顎に手をやって頭を捻って長考し、言葉を継いだ。

「大きいのは眷属を持ててしまうこと」

 雪の肩がぴくりと動いた。持ててこと。

 後悔、しているのだろうか。
 その問いは声にならなかった。

 ここを追い出されたらどう生きていけばいいのか分からなかった。

「眷属は寿命を共有すると言っただろう。その命は主人に依存する。つまり、私の乾きが満たされなければお前もまた喉が乾く」

 あの砂を噛めそうなパサついた喉の乾燥が思い出される。耐え難い苦痛だった。
 
 あれが、本能。
 
 頭の根っこから何かを求めてしまって、どうしたって潤したくて仕方ないあの感覚。
 砂漠で蜃気楼を追ってしまう危険性を身に染みて理解できた。

「貴方は上級だと言ったでしょう。なぜ自らを潤さないのですか。こんな乾きを毎日など、耐えられるものでは」
「耐えたんだ。人になりたかったから」

 間髪入れず雅が答えた。
 雪は目の前の言葉を飲み込めなかった。

 
「私は、ずっと、人になりたかった」

 
 彼の今までの不可解な行動がひとつの線になった感覚があった。

 料理を作るのも、
 人に親切にするのも、
 境界院からの司令でなくとも人を助けるのも、
 営業時間外に客の相手をするのも。

「私は残虐に同族や人を喰らう自身に嫌悪感すら覚える。嫌いなんだ、この本能が」

 思い出した。
 悪魔は罪を犯し規則の外へと捨てられた存在。
 神の定めた世の理を無為にできる唯一の存在。
 感情こそ存在しても脳が存在していない、そういう――。
 
 本当の感情なんて知るはずがないと、そう習ったのに、目の前の悪魔は酷くうらぶれた顔をしていた。
 
 それに共感できない自分の心がやけに薄ら寒かった。

「で得た寿命しか摂取せずもう何世紀か経った。取って食ったりなんてしていない。私は今、ここ数百年で最も弱っている。中級になら殺されるかもしれない」

 どこか遠い目をして雅は言う。彼はたまに心を見透かしたような言動をするが、雪からはその感情が読み取れなかった。
 
 栄養失調寸前まで堪えて、それでも雪を食わずに拾ってこの屋敷に運んだ。

 その覚悟が計り知れたものではないと、乾きを知った今ならば思う。

 後悔しているかと、聞かずにいたことに安堵した。

「対価以外に私が食うのは仕事で入った祓うべき悪霊の魂のみ。あとは百萌が気まぐれに寄越す喜びで口寂しさを埋める程度だ」
 
 煙管から吸い込んだ紫煙を淡々と燻らせるその手。

 酷く冷えきっていそうな青白さだった。
 行灯を雅の方へずい、と寄せた。

「あなたが人を食わない覚悟はよく分かりました」
 
「俺はこのままここにいてよいのですか」
 
「俺を助けたことで、あなたの負担になっていやしませんか」
 
 はく、と息を吸った。

「俺は貴方を、信じてみようと思う」

 真っ直ぐな、裏表の無い目で雅を見つめた。

 今まで疑い、自分を何者にしたのだと年甲斐もなく騒ぎ立てた。これは雪なりの誠意の示し方だった。

 それでもまだ、不合意のままに人以外の何者かにされてしまったことについては恨んでもいた。父と母を思うと、複雑な感情が心中を渦巻いて、到底許せることではなかった。

 目の前の相手にどんな目を向けたらいいのか分からない。ただその赤い目を逃がすものかと見つめた。

 煙管程度にも気は移させやしない。
 答えるまで視線を外すつもりはなかった。
 
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 気付かぬ間に、人ではなくなっていた。人として、この人生を全うするつもりであったのに。

 どうしようもない焦りがしんしんと募る。

 冷たい目の前の男の指先。
 その温度が、現実から切り離されそうな意識をどうにかその場に留めさせた。
 
 手先から抜けた体温が帰ってこない。
 
 彼の手は冷たいとばかり思っていたのに、今は自分の体温と大差なかった。

 目の前の悪魔は初めて微笑んだ。
 なんとも穏やかな笑みだった。

 
 まるで、人間みたいだ。

 
「生きながら眷属になるなど、珍しい」

 聞きなれない言葉が聞こえた。
 どこかで聞いたはず。
 上手く思い出せなかった。
 
「眷属とは、なんでしょうか。それは人に害なすものなのでしょうか」
「害? せいぜい私と寿命を共有する程度だ」
「悪魔に寿命があるのですか?」

 分からないことが多すぎて押し問答になる。口数が少ないこの男は、不思議と対話を嫌ったりしない。
 
 悪魔は基本的に肉体を持たない。高校の種族史で習ったのを覚えている。眷属について聞いたのもあの授業だっただろうか。
 
 午後の眠くなる日差しの中で、しわくちゃの真っ白い髭を蓄えた老父の震える手が、指揮棒みたいに棒を振って教鞭を奮っていた。

 あの時の雪は間違いなくただの生徒だった。

「あるさ、もちろん」

 雅は雪の頬から手を離し、調剤室に入って後ろ手に戸を閉めた。夜半の冷気がぴしゃりと締め出され、体温を奪いながら室内を同じ空気が巡る。

「同族や人、神精を食い寿命を得ているんだ」

 人間に、神に、妖怪に、精霊に。
 この世界の人間たちはそれらを総称して神精と呼んだ。

 分からない。人の命を奪ってまで生きる理由が。
 
「そこまでして生きながらえたいものですか」
「さあ......本能だ」

 答えは呆気なかった。
 
「寿命は強さにも直結する。生命線そのものだ。仕方ない、説明が必要らしい」

 戸棚の上に置いてあるマッチ箱から軽い木の擦れる音がする。

 ジュッ、と擦り火が灯されると、そのかたちのいい手元が顕になった。雅は行灯の油皿を引いて、火種をそこへ移した。
 
 落語の『死神』が頭を過ぎる。灯っているのは蝋燭であって、それが今にも消えそうなわけでもないのに。

 妙に、自分の魂が所在無さげだった。

「私たちのような悪魔は一日に数百と生まれている。その中で生き残るのは片手で足りるくらいだ。なぜだと思う」
「人や、その他種族に淘汰されるのでしょうか」
「惜しいが、違う。私たちは同族を食べて生き残る」

 さっと血の気が引いた。顔面が積雪の如く白くなった。
 
 雪はこの先、悪魔を貪り食いながら生きねばならないのだろうか。

 無為に想像が独り歩きする。
 突発的に吐き気を催して口を塞いだ。

「違う。お前もそうしろと言いたいんじゃない。そのくらい、生命力というのは私たちが生きるのに不可欠なんだ」

 雅はバツが悪そうに目を逸らして立ち上がった。
 小箱から煙草の乾燥した葉を取り出し、丸く丸めながら煙管の先端へと入れる。
 再びマッチを灯した。

 その葉に火をつける。少し火が馴染んだ後、深く煙を吸い込んで天井まである薬棚を燻らせた。

「この煙草もこれで終いだ」
「俺はその香りが得意ではありません」
「私もだ、悪魔の嫌う香りだろうか」

 ふっ、と笑いながら雪を流し見て、甘ったるい匂いをこちらへ吐き出した。軽く咳き込むと、さらに楽しそうに笑窪を深めた。

「私はこう見えて二千年と少し生きている。それに、境界院に所属している八人しか上級悪魔はいない」
「上級とそれ以外では何が違うのですか」

 早く生命力の話を、と急かしたい気持ちをぐっと堪えた。雅はこれまで必要なことしか話さなかった。きっとこれも必要なことに違いないのだと、深く注意を向ける。
 
 雅は質問が飛んでくるとは思わなかったようで口を一文字に結んだ。
 その後、しばらく顎に手をやって頭を捻って長考し、言葉を継いだ。

「大きいのは眷属を持ててしまうこと」

 雪の肩がぴくりと動いた。持ててこと。

 後悔、しているのだろうか。
 その問いは声にならなかった。

 ここを追い出されたらどう生きていけばいいのか分からなかった。

「眷属は寿命を共有すると言っただろう。その命は主人に依存する。つまり、私の乾きが満たされなければお前もまた喉が乾く」

 あの砂を噛めそうなパサついた喉の乾燥が思い出される。耐え難い苦痛だった。
 
 あれが、本能。
 
 頭の根っこから何かを求めてしまって、どうしたって潤したくて仕方ないあの感覚。
 砂漠で蜃気楼を追ってしまう危険性を身に染みて理解できた。

「貴方は上級だと言ったでしょう。なぜ自らを潤さないのですか。こんな乾きを毎日など、耐えられるものでは」
「耐えたんだ。人になりたかったから」

 間髪入れず雅が答えた。
 雪は目の前の言葉を飲み込めなかった。

 
「私は、ずっと、人になりたかった」

 
 彼の今までの不可解な行動がひとつの線になった感覚があった。

 料理を作るのも、
 人に親切にするのも、
 境界院からの司令でなくとも人を助けるのも、
 営業時間外に客の相手をするのも。

「私は残虐に同族や人を喰らう自身に嫌悪感すら覚える。嫌いなんだ、この本能が」

 思い出した。
 悪魔は罪を犯し規則の外へと捨てられた存在。
 神の定めた世の理を無為にできる唯一の存在。
 感情こそ存在しても脳が存在していない、そういう――。
 
 本当の感情なんて知るはずがないと、そう習ったのに、目の前の悪魔は酷くうらぶれた顔をしていた。
 
 それに共感できない自分の心がやけに薄ら寒かった。

「で得た寿命しか摂取せずもう何世紀か経った。取って食ったりなんてしていない。私は今、ここ数百年で最も弱っている。中級になら殺されるかもしれない」

 どこか遠い目をして雅は言う。彼はたまに心を見透かしたような言動をするが、雪からはその感情が読み取れなかった。
 
 栄養失調寸前まで堪えて、それでも雪を食わずに拾ってこの屋敷に運んだ。

 その覚悟が計り知れたものではないと、乾きを知った今ならば思う。

 後悔しているかと、聞かずにいたことに安堵した。

「対価以外に私が食うのは仕事で入った祓うべき悪霊の魂のみ。あとは百萌が気まぐれに寄越す喜びで口寂しさを埋める程度だ」
 
 煙管から吸い込んだ紫煙を淡々と燻らせるその手。

 酷く冷えきっていそうな青白さだった。
 行灯を雅の方へずい、と寄せた。

「あなたが人を食わない覚悟はよく分かりました」
 
「俺はこのままここにいてよいのですか」
 
「俺を助けたことで、あなたの負担になっていやしませんか」
 
 はく、と息を吸った。

「俺は貴方を、信じてみようと思う」

 真っ直ぐな、裏表の無い目で雅を見つめた。

 今まで疑い、自分を何者にしたのだと年甲斐もなく騒ぎ立てた。これは雪なりの誠意の示し方だった。

 それでもまだ、不合意のままに人以外の何者かにされてしまったことについては恨んでもいた。父と母を思うと、複雑な感情が心中を渦巻いて、到底許せることではなかった。

 目の前の相手にどんな目を向けたらいいのか分からない。ただその赤い目を逃がすものかと見つめた。

 煙管程度にも気は移させやしない。
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