11話
11、行灯
「俺は貴方を、信じてみようと思う」
燃え尽きた桜煙草の甘さが、返事の代わりに畳へ落ちた。
雅は雪ではなく、その肩口に滲む色を見ていた。
深呼吸が三度終わる。
閉じた襖に返されて。甘さにはもう、抜けていく場所がなかった。
雅の瞳は雪の肩から漏れる色を、長く見ていた。
極彩色のうち、ひとつだけが増えていた。
ほかの色を濁らせず、薄く覆い、見分けにくくしている。
美しさだけなら、昨日よりも整っていた。
雅の目は、その先を失くした。
「私を信じるのは、やめたほうがいいだろう」
足を組み直す。
雪が近づけた行灯は、まだ雅の側にあった。
雅はそれを戻さなかった。ただ、手を翳すこともなかった。
雪の視線が頭上の薬棚へと移った。
唇が結ばれ、震えた。
硝子戸の向こうでは、色の違う石が一つずつ分けられている。
混ざらないように。
混ざったものを、元へ戻さずに済むように。
「拾っておいて、懐かれるのは不満ですか」
「違う」
ゆるりと首を横に振った。
口を開きかけ、唇を微かに揺らしてまた閉じた。
今度は、雪の目ではなく色を見た。
問いを重ねるたび鮮やかになった。
雅を理解したい。その一心だけで、ほかのものが見えなくなっている。
澄んでいた。澄みすぎていた。
行灯の光が怪しげにゆるり、ゆらり。
雅は首を振った。
「貴方は人間を見下しているのですか」
「違う」
雅は雪を見た。まだ、顔を見ていた。
煙管を持ち上げ、吸い口へ唇を寄せる。
葉は燃え尽きている。火を継ぐことはせず、そのまま膝へ置いた。
「では、俺は話すに値しませんか」
「違う」
煙管の先から灰が一欠落ちた。
雅は拾わなかった。雪も見なかった。
灰だけが二人の間にあり、誰のものにもならず畳を汚した。
「そんなに俺が踏み込むのが嫌ですか」
「違う......もう、やめてくれ」
最後の否定だけは、雪へ向かなかった。
雅は頭を落としたのではなく、燃え尽きた煙管を置いただけだった。
これ以上話すための手を、空けてはくれなかった。
煙管を畳へ置いた。それだけだった。
それが、雪には降参したように見えた。
「なんだかあなたって、時折やけに幼いですよね」
雪が一歩近づく。
背後の行灯が、雪の影を雅の膝まで延ばした。
雅は動かない。
雪がもう半歩を詰める。
影が腹を覆い、胸元まで上がる。そこで雅は、一歩、退いた。
逃げたのではなかった。
赤い瞳が細くなる。
極彩色はまだあった。
雅へ向かうひとつの感情が、ほかのすべてへ同じ薄膜をかけていた。
正義も、警戒も、嫌悪も、同じ甘さを帯び始めている。
もう、味を選べないほどに。
「違うとばかり言っても、きっともう俺を捨てられないんでしょう?あなたは優しいから」
優しい。
その一語で雅の目は雪の色から離れた。
二千年かけてもなれなかったものを、雪は数日の観察で与えた。
何を食い、何を奪い、何を隠しているか。そのどれにも届かない、綺麗な名だった。
雅は否定しなかった。
否定する価値が見えなかった。
崩れ始めた極彩色が盲目にさせた。
言い終えてから、雪は自分の口が動いていたことに気づいた。
舌の上に甘味が残っている。
喜びの石を溶かした時より薄い。
雪自身の言葉にない味だった。
頬が持ち上がる。
歯が覗く。
笑う理由など、どこにもなかった。
雅にひどく静かな理解が訪れた。
雪の色を覆ったものの一部は、雅から漏れている。
雅が後ろ手に引き出しを開けた。
一つ目では足りない。
二つ目。
三つ目。
紙包みを破り、粉をまとめて口へ流し込む。
喉に引っかかる。無理やり嚥下する。
薬の粉が唇の端へ白く残った。
飲み込むたび、雪の極彩色から余分な甘さが剥がれていく。
色は少しずつ元へ戻っていった。
だからこそ。
先ほど口にした言葉だけが、その場に取り残された。
取り消す者はいなかった。
「大丈夫ですか、」
「お前の喉が、乾くのは......私が、飢餓状態、だからだ」
雪は乾いた空気を含んだような嗄れた喉の音を聞いて、急いで立ち上がった。
流しの横にあった適当な瓶に水を注ぎ、雅へと手渡した。
雪が差し出した瓶を、雅は両手で受け取った。
「お前はここにいていい。いくらでも。養えるだけの金は余るほどある、それに、その体じゃどの道、離れたところで苦労するだけだ」
許しではなかった。
追い出さないという、決定だった。
雅は瓶の縁へ指を滑らせた。左半分をなぞり、右へは進まない。もう一度、同じ半分を辿る。
「私の生命力を分け与えたせいで、お前は眷属に近い存在になってしまったらしい」
瓶の中で行灯が折れていた。
指が動くたび、細い火も水の底で揺れた。
「私もこんなに簡単だと思わなかったんだ。なんせ、ここまで生きてきて眷属の一人だっていた事がない」
雅は雪を見なかった。
「あの時のお前は意識がなく、生きようと必死だった。それが契約への合意となったのかもしれない」
見られていることは分かっていた。
それでも、指は瓶の半分から先へ行かなかった。
「事故、ということですか」
「ありたいていに言うとそうだ。責任は私にあるし、その乾きも眷族契約のせいだ。眷属と主人は生命力を共有しているから」
水面が静まる。
「私が死ねばお前は死ぬ。だが逆は」
雅の指が止まった。
続きを紡ぐはずだった口で、残りの水を飲み干した。
空になった瓶には、もう折れる火がない。
行灯の光を受け、『百味堂』の三文字だけがまっすぐ浮かび上がった。
「上級になってしばらく、同族も人間も食っていない。これは菜食主義を数世紀続けていることに近い」
「数十年人間が続けたら栄養失調で死ぬようなことを私は延々繰り返している」
「こんな乾きを味わせて悪い」
謝罪は不自然に整っていた。
余計な温度がなく、責任だけを過不足なく渡された。
雅は空の瓶を、二人の間へ置いた。
雪の側から見れば、その硝子越しに雅の顔がある。輪郭はもう歪んでいなかった。
近づいたから、正しく見えるようになった。
雪は、そう思った。
瓶に刻まれた『百味堂』の文字が、雅へ重なっている。
雅はもう、瓶の向こうにある色を見てはいなかった。