第7章 拡大編 - 第6話「双方の生命観」
バンッ。
玄関扉が開く音がした。
けれど、以前のような家そのものが震えるような“バァン!”というではなく、いつもより明らかに抑えられていた。
それでもまだ、東らしい粗さが残っている。
「美月!来た!魚!」
居間にいた美月が顔を上げる。
「いらっしゃい東。なんか魚が来たみたいな響きだね」
「本人も魚類ゆえ、間違ってはおらぬな」
「魚類でまとめんな!」
東が叫んだ。
腕には、本人の身体の半分ほどもある巨大な魚が抱えられていた。
まるで、人間界の牛のような面持ちの魚だ。
鰭は二手に分かれ、蹄のような形をしている。
全体を海水の膜が包んでいるものの、その底からはぽたり、ぽたりと床へ海水が落ちている。
「鳳、頼む!」
「承知」
鳳は魚を受け取ると、先ほど急ごしらえした氷入りの仮置き場へ慎重に置いた。
その様子を見ていたジャジーが、ふと眉を寄せる。
「片方ぜってぇ不味い魚だろ」
視線は魚ではなく、東本人へ向けられている。
「俺?」
「他に誰がいんだよ」
「人魚の肉は食えるぞ?」
東は、あまりにもあっけらかんと言った。
伝承上、確かに人魚の肉を食べた者が不老不死になる話は存在している。
しかし、問題はそこではない。
「お前、磯撫で入ってんだろ。味はどうなんだよ」
「なぜ食す前提の話になっておる」
鳳が呆れたように割り込む。
東は自分の体を眺めた。
「ん?食うか?」
「......」
美月の目が、ほんの少しだけ東の腕へ向いた。
「ちょっと興味あるみてぇな顔すんな!」
ジャジーが即座に突っ込む。
「ごめん東。私の知的好奇心が、開けちゃいけないドアに向かってハンマー振り下ろしてて」
「今すぐ扉を強靭に作り直すでござる」
「概念ハンマーも取り上げろ」
「また新しい概念!」
美月の声が響く。
東は未だにけろっとした顔をしている。
「だが、生物寄りの番なら、雌が雄を食うことなんざ普通にあるぞ?」
「食う方向の道を広くすんな!」
「もちろん食べない!食べないよ!?」
美月が慌てて手を振った。
「けど、ちょっと気になることがある!」
「おう!なんだ?」
東は変わらない笑顔を美月に向けた。
「伝承では、人間が人魚の肉を食べると不老不死になるって言うでしょ?」
「おう」
「でも私達って妖でしょ?人間よりずっと長生きだし、不老不死に近い状態だと思うんだけど、その場合どうなるの?」
東は少し考える。
「妖力っつーのは、簡単に言やぁ体力みてぇなもんだ」
視線を落とし、自分の胸を叩く。
「それがもともと存在しねぇ器に入ろうとすんだから、寿命やら体ん中の円環が崩れた結果、不老やら不死っつーもんになっちまうんだろ」
「なら、私達が摂取したら...」
「めちゃくちゃ回復する食い物っつーわけだ!」
ニカッと、あっさり答えた。
「ファンタジーから完全栄養非常食になった!」
美月の声が響く。
すると、東の顔が、わずかに得意げなものに変わる。
「人魚の肉は妖力の塊だ。最悪、妖力が回復できねぇ状況で俺の体を食えば、確実に美月と鳳なら回復できるぞ」
「俺は?」
ジャジーが自分を指す。
「お前、妖力じゃなくて魔力だろ。どう変換されるかは知らねぇ」
「急に雑だな!」
「知らねぇもんは知らねぇよ!」
そして東は、満面の笑みで美月へ向き直ると、胸を張る。
「俺は美月に食われるんだったら、喜んで自分の体掻っ捌くぞ!」
声は明るい。
むしろ、役に立てることを褒めてほしいとでも言いたげだった。
―――だからこそ。
東は、気づいていなかった。
俯いている美月の顔から、笑みが消えていたことに。
ジャジーと鳳は、そんな東の様子に苦い顔を浮かべた。
沈黙。
「美月?」
東の表情が止まった。
空気の変化を察知し、美月の顔を覗き込む。
「......っ...な......!」
そして、目が見開かれる。
覗き込んだ先の、美月の表情。
眉は下がり、唇はきゅっと結ばれている。
「おい、なんでそんな顔してんだ......!?」
先ほどまで輝いていた目が、見るからに不安げになる。
本気で分かっていない。
手は所在なさげに浮いたままだ。
しかし、美月と交わした距離についての約束は、しっかり守っていた。
「......やだ......」
小さな声が落ちた。
空気から、さらに温度が抜ける。
「......万が一の状況であっても......」
美月はぎゅっと服の裾を握った。
「私達が助かるなら、東が傷ついてもいいなんて、思うわけないでしょ......」
静かな空間に、美月の消えそうな声が落ちる。
「......俺......」
東の手が握り込まれる。
「また、何か間違えたか......?」
その言葉に、美月は首を振る。
「間違えたっていうより、種族文化とか、考え方の違い......かな......」
「......東」
鳳が低く名を呼んだ。
「拙者も、やり方は違えど、同じようなことを経験したでござる」
美月を絡新婦から救った時。
僵尸を取り込んだ一件で、鳳の妖力は枯渇寸前だった。
それでも青札の招集命令を受け、自ら消滅する可能性すら承知のうえで、現場へ向かった。
生き延びたところで、自分は生き血を必要とする存在。
ならば、妖力が尽きるまで青札としての責務を果たし、最後に自分一人が消えればいい。
誰も傷つけずに済む。
そう考えていた。
「......己を差し出すことを、本人は当然と思っていても、残される側はそうではない」
鳳は東をまっすぐ見る。
「拙者は、自分が我慢すればよいと思っていた。それが最も迷惑をかけぬ方法だとな」
だが、結果は違った。
我慢を繰り返すことで美月を悲しませ、怒られ、呆れられた。
自分の中では正解だった自己犠牲が、誰かにとって正解とは限らなかった。
「俺、別に自分の体をぞんざいには扱ってねぇぞ。使えるもんを使うだけだ」
海側の生命観だ。
それが、陸側である自分達とは異なる生命観であることを、東以外の三人は理解はしている。
しかし、理解できることと、受容することは違う。
俯いている美月の顔が、さらに曇った。
「しかし、自分を犠牲にするという点では同じことであろう」
「番と仲間が助かるならいいじゃねぇか。一部の肉がなくなったとしても戻るぞ?時間はめちゃくちゃかかるがよ。それに、死ぬわけでもねぇし―――」
その時だった。
「そういう話ではない!」
鳳の声が強くなり、いっそう険しい顔をした。
その気迫に圧された東は黙る。
「お主には海側としての生命観があるのであろう。そこは理解しておる」
少しだけ声を落とす。
「だが美月殿にとって、自分のために東が目の前で己の身体を裂く惨状を見て、何と感じるのか。それも少しばかり考えよ」
東の視線が、美月へ向く。
「己を差し出しすぎる努力なぞ、美月殿は喜ばぬ。それは覚えておくがよい」
鳳の言葉が、胸の中で反響する。
「......悪ィ......」
東の眉が下がる。
「俺......美月が喜ぶなら、何かあった時に助かるなら、それでいいって思ってた」
「......うん」
「でも俺がそうしたところで、お前は喜ぶどころか、悲しむんだな」
美月は少しだけ考え、頷いた。
「全部がそうってわけじゃないよ。でも今回の話に限っては、東にとって戻る傷でも、私にとっては戻らない心の傷になる」
東が、じっと美月を見る。
「東は大したことじゃないように言ってるけど、私は東が自分の体を切るところなんて見たくない」
「......」
「どうしても全員助かるためにそれしかないなら、その時は一緒に考える。でも最初から、『俺を食えばいい』を答えにしないで」
しばらくの沈黙。
やがて東は、しっかり頷いた。
「......分かった。なら、やらねぇ」
美月の目が上がる。
「俺を食う案は、最後の最後だ。まず他の道を探す」
そして、真剣な顔で続ける。
「美月が泣くなら、それは良い助け方じゃねぇんだよな」
美月の表情が、ようやく柔らかくなった。
「うん」
少しして、くすりと笑う。
「うちに来るたび、新しい知識がつくね」
「おう」
「私も今の話で、東の生命観が少し分かった」
東はわずかに目を見開いた。
美月は一歩近づく。
「色々言ったけど、その価値観に怒ってるわけじゃないよ。東の気持ちは、すごく嬉しい」
そして、少し照れくさそうに笑った。
「ただ......今はもう、東が大切だから。できる限り傷ついてほしくないの」
「......大切......」
東の瞳が揺れる。
恋人になったわけではない。
しかし、他人よりも、明らかに踏み込んだ関係である言葉だった。
「分かってくれる?」
美月は困ったように笑う。
そして。
東の顔へ、いつもの大きな笑みが戻った。
「......あぁ!もちろんだ!」
「よし!」
美月も笑う。
そして、ぱんっと手を叩いた。
「さぁ!じゃあ東が持ってきてくれたお魚のアピールポイントを聞こうか!」
「毎度のごとく切り替え早ぇな」
ジャジーが呆れたように笑う。
鳳も、小さく肩を揺らした。
「あぁ!これはな―――」
東は、待ってましたとばかりに魚の前へしゃがみ込む。
すっかり笑顔を取り戻した四人は、氷の上に鎮座する巨大な魚を囲んだ。
先ほどまで自分を食う話をしていたとは思えないほど、東は楽しそうに魚の魅力を語り始めようとしている。
そして美月もまた、それを嬉しそうに聞こうとしていた。
第7章 拡大編 - 第6話
「双方の生命観」
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