第7章 拡大編 - 第7話「あの高級食材」
「これは、偶蹄魚だ」
「ぐうていぎょ?」
聞き慣れない名前に、美月は小さく首を傾げる。
改めて見る。
丸みのある鼻先と、どことなく穏やかな目元。
正面から見ると、妙に人間界の牛を思わせる面持ちだ。
そして。
偶蹄魚。
「......」
美月の頭の中で、何かと何かが繋がりかけた。
が、まだ情報が足りない。
口から出かけた言葉を一度飲み込み、まずは海の主である東の説明を聞こうと、魚へ視線を戻した。
「でけぇくせになかなか見つかんなくてよ。久々に見つけたから獲ってきた!」
東は満足げに胸を張った。
鳳も氷の上の魚を眺めながら、わずかに首を傾げる。
「先ほども思ったが、顔はいささか魚らしくないでござるな」
「だろ?でも魚だ」
「で、こいつの何がいいんだよ」
ジャジーがしゃがみ込み、魚を覗き込む。
食べ物としての興味よりも、美月があれほど楽しみにしていた“美味い魚”がどんなものかを確かめたいらしい。
東は待ってましたとばかりに指を立てた。
「まず、こいつは海ん中でも一位二位を争う最高の赤身魚だ」
「最高の赤身魚ぁ......!」
美月の目が一瞬で輝き、その反応を見た東の顔も、分かりやすく明るくなった。
「雌の方が圧倒的に美味ぇ。で、こいつは雌だ。時期的にもいちばん美味ぇタイミングで捕獲できた」
「うはぁ......!楽しみすぎるぅ......!」
美月は両手を胸の前で握りしめた。
「お前、今までで一番目が輝いてんな」
ジャジーが半目になる。
恋人二人から愛を告げられていた時より、この肉らしきものを前にした今の方が、目の輝度だけで言えば高い。
かなり複雑だ。
「なによりこいつの特徴は、魚らしくねぇ身をしてんだ」
「......ん?」
美月の笑顔が、わずかに止まった。
頭の中へ、これまでの情報を並べていく。
牛のような顔。
偶蹄魚という名前。
雌の方が美味しい。
最高級の赤身。
そして。
魚らしくない肉質。
「......まさか......」
何かが、ものすごい勢いで組み上がり始めている。
東はそんな美月の変化には気づかず、さらに説明を続けた。
「中でも腹身は最高だ。柔けぇうえに、サシが半端ねぇ。俺は基本的に生でしか食わねぇが、焼けば脂がすげぇだろうな」
赤身。
サシ。
柔らかい腹身。
牛のような見た目。
すべての情報が一点へ収束し、美月の目が大きく見開かれる。
そして。
「これ......牛肉だぁ......!!」
両頬を手で包み、歓喜の声を上げた。
「......ぎゅうにく?」
東は聞き慣れない単語を、そのまま復唱する。
「人間界の獣のお肉!お肉の中では高いやつ!ステーキとか焼肉とかすき焼きとかにして食べると最高なの!」
「すてぇき?」
「焼く!肉を!いい感じで!」
説明が雑になった。
「魚ではないのでござろうか?」
鳳は未だに根本的な部分で引っかかっている。
「魚だぞ?」
東は即答した。
「魚籍だけ魚の肉!」
「じゃあ肉だな!」
「美月の言葉一つで今までの常識捨てんな!」
ジャジーが叫ぶ。
しかし、美月にはもう聞こえていなかった。
最後に食べたのはいつかすら忘れた、待望の“肉”。
しかも、ただの肉ではない。
東曰く、最高級。
そして旬のものであり、雌で柔らかくて、サシまである。
「東ぁ......!」
感極まった美月は、そのまま東へ飛び込んだ。
「うぉっ!?」
自分の胸元へ飛び込んできた小さな身体に、東の目が見開かれる。
当然、美月程度の体重が飛び込んできたところで、海の主が倒れることはない。
ただし。
腕だけは、宙で止まった。
「美月! 俺、許可取ってねぇ!」
「私から行った分にはいいの!」
「そーか!なら、触っていいんだな!」
「肩か背中だけね!」
「わかった!」
返事が早い。
東は嬉しそうに笑うと、美月の背中へそっと腕を回した。
以前のように、力いっぱい抱え込むことはせず、肩と背中。
言われた場所だけを大きな腕で、壊れ物でも扱うように包んだ。
「東ありがとう......!東は私の食生活を支える命の恩人だよ......!」
「お、おう!そりゃあ良かった!」
「言葉だけ聞きゃあ、俺らがすげぇひもじい思いさせてるみてぇだな」
ジャジーが眉を寄せる。
しかし東には、その声がほとんど入っていない。
腕の中に美月がいる。
東は満面の笑みで胸を張った。
「番を飢えさせる雄なんざ、雄の風上にも置けねぇからな!」
「............」
「............」
なぜかその言葉は、ジャジーと鳳へ直撃した。
ジャジーの眉がぴくりと動く。
「......そういや俺、美月に美味ぇもん持ってこいってパシられてたわ」
鳳も、ほんの少し視線を逸らした。
「拙者も、畑の手伝いに気を取られ、美月殿の申す“たんぱく質”となるものを調達する頭が働いておらなんだ......」
東は不思議そうに二人を見る。
「それ、要するに忘れてたってことじゃねぇのか?」
「痛ぇとこつくんじゃねぇ......!」
ジャジーの肩が落ちる。
「今回ばかりは東の申すことが正しいでござる......」
鳳まで沈んだ。
そんな二人の気持ちなど露知らず、美月は東の腕の中から、ひょこっと顔だけをジャジーへ向ける。
「そういえばジャジーは、いつ美味しいもの持ってきてくれるの?」
純粋そのものの目。
責めているわけではなく、ただ純粋に前にした約束を思い出しただけである。
「追撃すんな......」
ジャジーは床へ崩れた。
「あっ。でも、東がこうやって美味しいもの持ってきてくれるなら、前にジャジーに言った狩猟資格取らなくても大丈夫そうだね!」
美月は人差し指を立てた。
万事解決。
そんな晴れやかな顔だった。
しかし、床へ崩れたジャジーの背には、目に見えない言葉の矢がさらに数本増えた。
「取る!」
勢いよく顔を上げる。
「ぜってぇ取る!その座をそいつに奪われてたまるか!」
「自業自得だろ」
東は真顔だった。
「お前さっきから正論で殴んな!」
必死なジャジーの様子に、美月は楽しそうに笑う。
「そういえば、東はこの前も魚いっぱいくれたもんね!」
「ぐぅ......っ!」
ジャジーが胸を押さえる。
隣では。
「こちらは虫の息でござる......」
鳳が遠い目をしていた。
「次は概念瀕死?」
美月がけらけら笑う。
「美月も無自覚で毒撒いてんだよ......」
「美月の言うことを毒にしてんのお前じゃねぇのか?」
東が本気で不思議そうに首を傾げる。
「お前もう黙れ!!」
美月と東の無自覚な連携は、ジャジーに絶大な効果を発揮していた。
しばらく黙っていた鳳も、やがてゆっくりと顔を上げる。
「......拙者も、以前の拠点の川より川魚を調達するでござる」
「今さらか?遅くね?」
返答が早い。
ドス、ドスと、見えない言葉の矢が鳳にも刺さっていく。
「確かに、今まで持ってきてくれたことなかったもんね」
美月まで追い打ちをかける。
「ぐっ......」
ついに鳳まで床へ崩れた。
「美月!それ以上そいつとタッグ組むのやめろ!!」
ジャジーが叫ぶ。
「何も組んでないよ?」
「俺も普通に喋ってるだけだぞ?」
「だから余計タチ悪ぃんだよ!」
東は未だ納得していない。
「お前ら、それでよく美月の恋人にしてもらえたな」
一瞬、空気が止まった。
ジャジーが顔を上げる。
鳳も、わずかに目を細めた。
海側である東にとって、番を飢えさせず、美味しいものを与える。
それらは求愛以前の基本なのだろう。
けれど。
「東」
美月が静かに名を呼んだ。
東が美月を見る。
美月は、もう笑ってはいなかった。
かといって、怒っているわけでもない。
ただ、真っ直ぐに伝える顔だった。
「私、損得勘定で二人を恋人にしたわけじゃないよ」
「そうなのか?」
目を丸くする東。
美月はジャジーと鳳を見る。
「二人は、確かに何か気が利くことをするっていうのは、ちょっと苦手なのかもしれない」
そして、再び東を見る。
「でも、危ないことからはちゃんと守ってくれるし、愛情もいっぱいくれる」
ジャジーと鳳へ、ちらりと目を向ける。
「それに二人とも、前よりちゃんと私のことも、自分自身のことも、大切にしてくれるようになったの」
ジャジーは、自分の欲を美月へ押しつけるだけではなくなった。
鳳も、自分だけが我慢すればいいと考えなくなった。
二人とも、美月と一緒にいるため、少しずつ変わってきた。
「だからね」
美月は柔らかく笑う。
「好きになったんだよ」
「......」
東の目が、少しだけ丸くなる。
物を与え、守ること。
そして、生命維持のため、食べさせること。
海側では、それらが伴侶としての優秀さに直結する。
けれど、美月にとってはそれだけではない。
共に過ごした時間や言葉。
各々の変化や、心の成長。
そういう目に見えないものまで含めて、人を好きになるのだ。
東は、しばらく美月の顔を見ていた。
そして。
「......やっぱ、美月は最高だな」
ニカッと、大きく笑った。
「なんでその結論になるの?」
「俺の知ってる番の選び方とは全然違ぇ。その選び方なら、海の雄ども全員に、好機がある感じがする!」
「諦めることを、諦めていい気がすんだ」
「......わかんないけど、なんかわかった」
少し照れたように頬を掻く美月の向こうで。
「......なんか、やっと救われたな」
ジャジーがゆっくり起き上がった。
「うむ。今回は引き上げが遅れたでござるな」
鳳も胸を撫で下ろす。
美月はそんな二人を見て笑い。
そして、窓の外から差し込む日の高さに気づいた。
「あっ」
卓の上の時間表示を見る。
「ほらほら、そうこうしてるうちにお昼だよ!」
美月は勢いよく立ち上がる。
そして、氷の上に鎮座する偶蹄魚を見下ろす。
「今日は牛肉のステーキだよ!」
「ぎゅうにく!すてぇき!」
「もう“ぎゅうにく”で決定なのでござるな」
「牛肉!」
「ぎゅうにくだ!」
「好きなもん出された幼怪みてぇになってんな」
ジャジーが頭を抱える。
「美月!じゃあ俺は何すりゃあいい!?」
東はそんなことなど気にも留めず、美月の後ろをついていく。
「じゃあ東は捌くの手伝って!」
「おう!」
「お前は座ってろ魚野郎!」
ジャジーが割って入った。
「美月の手伝いは俺で十分だ!」
「なんでだよ!俺が持ってきたぎゅうにく魚だぞ!」
東が反論する。
「名前が混ざってるよ!」
美月は楽しそうに笑っている。
「......まったく......」
二人の言い争いと美月を眺めながら、鳳が小さく息を吐く。
「この家は、まことに落ち着きがないでござるな......」
しかし、その口元は楽しげに笑っていた。
ジャジーの怒声と、東の大声。
そこに、美月の楽しそうで、鈴を転がしたような笑い声。
その間へ、鳳の静かな声が混じる。
狭い家の中へ、四人分の声が響いていく。
今から始まるのは、隠世へ来て以来、美月が待ち焦がれていた。
肉―――
―――のような魚。
だが、誰がなんと言おうと、美月にとっては立派な高級肉である。
こうして、美月の家では。
待望の肉(?)パーティーが、盛大に幕を開けようとしていた。
第7章 拡大編 - 第7話
「あの高級食材」
→第7章 拡大編 - 第8話
「感謝感激えへえへへ」へ