第8章 本格始動編 - 第5話 「善行と成功と犯行と友好(?)」
東「“じんこーこきゅー”ってやつをやったんだ!」
「............」
「............」
「............」
「............」
沈黙。
完全なる沈黙だった。
少し前まで、鳳と東の昔話に興味津々だった美月も。
頬杖をつきながら面白そうに聞いていたジャジーも。
静かに茶を飲んでいた癒凪も。
そして、話題の当事者である鳳すら口を閉ざしている。
そんな空気などまったく気にしていない東だけが、まるで覚えたての知識を自慢する子供のように、堂々と胸を張っていた。
他者の命を救った武勇伝でも語り終えたかのように、本人の周囲だけが妙に眩しい。
―――人工呼吸。
呼吸が止まっている、あるいは正常な呼吸が確認できない相手へ、酸素を送り込むための救命処置である。
状況によっては胸骨圧迫などと組み合わせ、一刻を争う場面で行われるものだった。
美月は東をじっと見つめる。
「......東、人工呼吸なんか知ってるの......?」
「あぁ!」
堂々とした返事だった。
おそらく、東本人にとっては最大級の成功体験であり、鳳にとっては最大級の腐れ縁による犯行である。
癒凪が、見るからに嫌そうな顔で眉間へ皺を寄せた。
「......正しい方法は知っていたのか」
「正しい方法?」
東が目を丸くした。
ぱちぱち、と瞬きを繰り返しながら、疑問符までつきそうな声でそのまま問い返す。
「あっ、終わった」
美月の口元が引きつった。
「胸骨圧迫まで必要な状況だったら、もっと大惨事だったんだろうな......」
美月が遠い目をする。
ジャジーも同じ光景を想像したらしく、嫌そうに片眉を上げた。
「こいつに胸骨圧迫させたら、溺れて死にかけてるやつに格闘技でトドメ刺すただの暴漢だろ」
「救命が処刑になる!」
美月は両手で頭を抱えた。
東は相変わらず、何を言われているのか分からない様子で、きょとんと首を傾げている。
「なんだよ。“じんこーこきゅー”って、口の中に息を送りゃいいんだろ?」
「ま、まぁ、完全に違うとは言えないけど......」
「じゃあ正解だな!」
「その一部合ってりゃ百点みてぇな雑採点やめろ」
ジャジーが苦い顔で吐き捨て、美月も深く息を吐く。
すでに答えはほとんど分かっている。
しかし、なぜか美月は確認したくなった。
「......ちなみに、その人工呼吸をした相手って......」
「俺が鳳にしたに決まってんだろ」
即答だった。
美月の何とも言えない視線が、東から鳳へ滑っていく。
「ま、まぁ......、鳳の呼吸を確保するためだったなら......」
そこまで言って、美月は気づいた。
鳳の顔が、みるみる険しくなっている。
「......それで本当に呼吸が確保されておれば、拙者も何も言えぬでござった......」
「つまりそれ、呼吸が確保されたわけじゃなかったっつーことだな」
ジャジーの表情まで苦くなる。
鳳は、人生の汚点でも飲み込むような顔で重々しく頷いた。
「拙者はあの時、海水が肺へ入り込み、意識を失ったわけではござらぬ」
その瞬間。
美月達の中で膨らんでいた嫌な予感が、一気に高波へ変わった。
「東による立て続けの塩攻めに妖力を消費し、意識を失いかけていたのでござる」
「......つまり、必要だったのは淡水と妖力か」
癒凪が淡々と整理する。
「......うむ」
鳳が再び頷いた。
美月の顔が、見る見るしょっぱくなっていく。
「......つまり......人工呼吸自体には、なんの意味もなかった......?」
「......うむ......」
今までで一番重い『うむ』だった。
海へ飛び込むところまでは、当時の鳳の自業自得な部分はあった。
しかし、ようやく浜へ上がれたと思えば、東からひたすら海水を浴びせられ、枯れかけた喉へまで海水を流し込まれた。
そして、最後に待っていたのが、意味のない人工呼吸。
「............」 「............」 「............」
再び沈黙が落ちた。
東だけが納得していない顔をしている。
「んだよ。でも俺があれ頑張ったから、結果的に妖力も効率よく流し込めたし、なんとか川まで行けたんだろうが」
「口からでなくとも送ることはできたでござる!」
鳳がとうとう声を荒らげた。
当時の東は、今ほど妖力の扱いに長けていなかった。
細かな調整などできず、とりあえず出す。
必要ならもっと出す。
それだけだった。
そして、人工呼吸だけでは終わらなかった。
鳳の顔をさらに死なせた、もう一つの原因。
美月の目がこれでもかと見開かれる。
「まさかの妖力口移し!?」
本来なら手を通して渡せば済む妖力を、わざわざ口から送り込んだ。
人間として過ごしてきた美月にとって、それは看病すべき相手へ、普通に水の入ったコップを渡せる状況なのに、わざわざ口移しで飲ませたような話である。
美月の顔が一瞬で熱を持った。
「んわぁぁぁ急なBL展開!」
「“びーえる”?」
東の頭に疑問符が浮かぶ。
「男性同士の、その......友情以上の......っ!」
「俺ぁ鳳のこと好きだぞ?」
「拙者は好きではない」
鳳の返答は一切の間を置かなかった。
しかし。
すでに美月の耳には、鳳の返答は入っていなかった。
東の『俺ぁ鳳のこと好きだぞ? 』という発言により、美月の脳内には、大量の薔薇の花びらが舞っている。
「アァァァこれはどっち!? 東は純粋だけどヤンキー系だから一見攻めっぽく見えるけど、鳳のこのツンも戦略のうちのツンだとして、でも普段の上下関係を考えたら逆転も......!」
「美月、落ち着け」
癒凪が目頭へ指を当てた。
先ほどまで塩の塊でも口へ突っ込まれたような顔をしていた美月が、ほんの数秒で別方向へ荒ぶり始めたことに、鳳は深い疲労を浮かべる。
「美月殿。拙者をさらに追い込んでくれるなでござる......」
「ご、ごめん!でも急に素材が強すぎて......!」
「素材と申すな......」
鳳の声が掠れる。
ジャジーは大きなため息を吐き、東と鳳へ、順番に視線を向けた。
「東。鳳。もうこの話は終わりだ」
「なんでだ?」
東が目を丸くする。
「美月がやべぇ扉開けかけてる」
「あ、開けてない! 開けてないよ!」
ジャジーの冷め切った視線を受け、美月は我に返ったように両手をぶんぶん振る。
しかし、東はそんな美月を見てから、ふと鳳へ顔を向けた。
「でもよ」
声音が少し変わる。
「よっぽど俺のこと嫌いなら、普通戻って来ねぇだろ」
鳳が固まった。
東は、ただ疑問に思ったことをそのまま口にしているだけなのだろう。
からかう色も、試す色もない。
「なのにお前、川に行って回復したあと、わざわざ俺んとこ戻って来たよな。それはなんでだ?」
純粋な問いだった。
鳳は、すぐには答えなかった。
湯呑みへ落とした視線が止まる。
しばらくして、ゆっくり目を閉じた。
「......妖力を分け与えられ、生き延びたことは事実でござる」
姿勢を整える。
「その恩を、己の感情のみで蔑ろにすることは、拙者の道に反する。ゆえに、戻っただけでござる」
言葉だけを見れば、ずいぶん捻くれていた。
好きだから戻ったわけではない。
会いたかったからでもない。
恩を返すためだと。
だが。
その根にあるものは、ひどく真っ直ぐだった。
自分の感情と、受けた恩は別。
嫌いだからといって、助けられた事実まで消すことはしない。
東は鳳をしばらく見つめていた。
「鳳」
荒い声が短く飛ぶ。
鳳が目を開けると、そこには。
東は片腕を持ち上げ、手を開いたまま、肘を曲げている。
手を組むための合図だった。
「............」
鳳の眉間へ再び皺が寄る。
そして、大きなため息を一つ吐く。
まるで、“仕方ない”とでも言うような顔をしながら、それでもその手は拒まなかった。
東の手へ、自分の手を交差させる。
がしり、と。
大きな二つの手が組まれた。
その瞬間。
美月の目から、ぼろぼろと涙が落ちた。
「友情......尊い......」
胸を押さえ、うずくまる。
「お前、忙しいな」
ジャジーが呆れたように美月を見る。
「だってぇ......! 恋人達からこんな面白素敵エピソード出てくるなんて思わないじゃん......!」
「“面白”は余計でござる!」
「“恋人”が喜んでんだ。それだけで十分だろ」
東が、また嬉しそうにその言葉を使った。
美月は涙を拭うことも忘れ、一瞬でそちらへ反応する。
「東、また言ってるー!」
「言うに決まってんだろ! 今日から言えるんだからよ!」
「もう何回目なの!」
「数えてねぇ!」
「絶対百回くらい言うつもりでしょ!」
「百じゃ足りねぇな!」
美月がさらに顔を赤くした。
「俺、もう砂糖吐く...」
ジャジーが横から文句を飛ばす。
鳳は組んでいた東の手をさっさと離しながら、呆れたように息を吐いた。
賑やかな声が、朝の広いリビングへ広がっていく。
―――その中で。
「............」
癒凪だけは、何も言わなかった。
視線は、手元の湯呑みに落ちている。
ほとんど減っていない茶は、すっかり冷めきっていた。
「............」
癒凪は、湯呑みへ映る自分の顔から、目を逸らせずにいる。
賑やかな笑い声の中、そこに映っていたのは。
自分でも見慣れないほど、険しい顔だった。
第8章 本格始動編 - 第5話
「善行と成功と犯行と友好(?)」
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