ホーム›転生先は隠世!?〜属性過多の妖怪達に愛され過ぎて、念願のスローライフは享年1日で終了しました〜›第8章 本格始動編 - 最終話 後編「あと一歩」
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第8章 本格始動編 - 最終話 後編「あと一歩」


大きな影が、窓の外を横切った。

「......で......」

ばさり、と羽ばたく音がして、再び影が窓を横切った。

「......まで......」
「............」

三度目。
今度は通り過ぎず、窓の真正面でぴたりと停滞した。

外からこちらを覗き込むように、大きな妖あやかしの顔が逆光の中へ浮かぶ。

「いつまで?」
「............」

癒凪ゆなぎは、ひどく冷めた目を向けた。

こいつが何のために来たのかは、だいたい分かっている。

だからこそ、できれば相手をしたくなかった。

「いつまで開けねぇつもりだ!」

とうとう大きな妖あやかしが、窓の向こうで叫んだ。

「以津真天いつまで。普通に話せ」
「なんかそのセリフ前も聞いたわ」

先ほどから視界の端を何度も巨大な影が往復している。

考え事をするにも、茶を飲むにも、正直かなり目障りだった。

癒凪ゆなぎは深く息を吐くと、仕方なく窓へ手を伸ばす。

開けた途端、以津真天いつまでは待っていましたとばかりに窓枠へ片足をかけた。

「何の用だ。帰れ」
「『何の用だ』って聞いときながら直後に『帰れ』はねぇだろ!」
「............」

抗議の声も、今の癒凪ゆなぎには半分ほどしか届いていなかった。

壁一枚隔てた隣室から、また声が聞こえたからだ。

「東あづま!歯!歯が当たってる!」
「キスだって頭では分かってる!」
「じゃあなんで口が捕食モードなの!?」
「本能は噛めっつってる!」
「ブラッディキスとか笑えないよ!」
「............」

癒凪ゆなぎの周囲だけ、わずかに影が濃くなった。

その変化を見た以津真天いつまでは、腕を組んで何度か頷く。

「......おーん」
「なんだ」
「前に会ったやつは煮凝りタイプだったが、お前は未完成ドーナッツタイプか」
「意味が分からない」

眉間の皺が一段深くなる。

「まぁ聞けって」

以津真天いつまでは、にやりと口角を上げた。

「内容は、おそらくお前の大事なもんだろ。異様に未処理案件が甘ぇ空気出してる」
「............」

癒凪ゆなぎの頭の中には、疑問符しか浮かばない。

以津真天いつまではそんな反応など気にせず、自分の指で輪を作って見せた。

「外周だけは見事に揃ってる。随分しっかり固まってんな。だが、その真ん中が開いてる」
「......だから、なんだ」

何を言いたいのか、まったく分からない。

「お前がそれを、誰も食えねぇ揚げる前の未完成ドーナッツのままにすんのか。それとも、お前の大事なもんがちゃんと手ぇ伸ばせるドーナッツとして完成させんのか。それ次第で結果が変わるってことだ」
「余計に分からなくなった」

癒凪ゆなぎの眉間へ、さらに深い皺が刻まれた。

「じゃあよ」

以津真天いつまでは笑みを少しだけ引っ込め、目を細める。

「お前、ここで一人で茶ぁすすってて楽しいか?」
「楽しいわけがないだろう」

答えは、考えるより先に出た。

「じゃあなんで、ここで刑期受けてるみてぇになってんだ」

その問いに、癒凪ゆなぎは口を閉ざした。

湯呑みへ視線を落とし、しばらくしてから小さく言葉を落とす。

「......資格がない」
「資格?なんの」
「......彼女の、側に行く資格だ」

以津真天いつまでは少し首を傾げた。

「お前の大事にしてるもん、危険物なのか?」
「その資格ではない」
「じゃあよく分かんねぇけど、資格がねぇと彼女の側に行けねぇの?」
「......違う」

小さな返事だった。
言われてみれば、その問いに対する答えは違う。

「なら行きゃいいだろ」

あまりにも当然のように言われ、癒凪ゆなぎは首を横へ振った。

「それができないから、こうなっている」
「できねぇように自分縛ってんのはお前だろ」

返事は一瞬だった。
癒凪ゆなぎは、何も言えなくなる。

以津真天いつまでは少し苛立ったように翼を揺らした。

「お前、何がしてぇんだ?」

癒凪ゆなぎは黙った。

けれど、先ほど自分の部屋で考え続けていたことを思い出す。

役に立てなくても。
何も与えられなくても。
それでも。

「......彼女の側へ、行きたい」

今度は、はっきりと言った。

「......ふーん」

以津真天いつまでは、その言葉の表面ではなく中身を見るように癒凪ゆなぎを眺めた。

「じゃあ、行ったら満足すんだな」
「............」

また、すぐに答えられない。

側へ行く。
それだけで本当に満足するのか。

「......分からない」
「じゃあなおさら行って確認するべきだろ」

以津真天いつまでの表情が、少しだけ明るくなる。

「行ったら見事に揚がって、無事彼女も食えるドーナッツになるかもしれねぇぞ」
「............」

癒凪ゆなぎは無言のまま、視線だけで圧をかけた。

「怖ぇ怖ぇ。で、いつまで?」

まるで決め台詞のように告げられ、癒凪ゆなぎは一度だけ扉の方を見る。

「......じきに、呼ばれる」

先ほど自分で言った。
終わったら呼べ、と。

「どちらにせよ、彼女のところには後ほど行くことになる」
「じゃあそんとき、その彼女とちゃんと話すことだな」

以津真天いつまではニッと笑った。

「さっきより処理状況が進んだ感じすんな。やっと残尿感みてぇなのが消えたわ」
「汚い例えをやめろ」
「まぁ、あとはなんとかなんだろ」

翼が大きく開く。

癒凪ゆなぎの手元には、いつの間にかすっかり冷めた茶が残っていた。

「お前のせいで茶が冷めた」

苦々しい顔で言うと、以津真天いつまでは肩を揺らして笑う。

「置いとけ。あとで必要になるぞ」
「ならない」
「その言葉、覚えとけよ」

意味深に笑ったあと、以津真天いつまでは窓枠から身を離した。

そして、ふと思い出したように、声の調子を少し落とす。

「......お前のドーナッツの穴はな、“空白”じゃねぇ」
「......何を言っている」
「見通しが良い、甘ぇ窓なんだよ」

癒凪ゆなぎは怪訝な顔をした。

見通し。
これから先、どうなるのか。
甘い。
自分と美月との関係。
窓。
外が見える場所。

そんな意味が込められているなど、今の癒凪ゆなぎには分かるはずもない。

「ははっ!ドーナッツは穴まで含めて美味ぇってことだ!じゃあな!」
「最後まで意味が分からない」

以津真天いつまでは笑いながら夜空へ飛び立っていく。

「見えねぇようで、答えなんかとっくに出てんだよ......」

小さな声だけを残し、その姿は山の向こうへ消えていった。

その直後。

コンコン、と扉が鳴る。

「癒凪ゆなぎー?入っていいー?」
「っ......美月?」

先ほどまでの重たい動きが嘘だったように、癒凪ゆなぎはすぐに扉を開けた。

そこにいたのは、美月一人だった。

「......他は」
「私の代わりにご飯作ってくれるって。いちばん回復してるのジャジーだし」
「......そうか」

胸の奥が、ほんの少し温かくなる。

「で、なんの用だ」

いつもの調子で尋ねると、美月は不思議そうに目を丸くした。

「?なんか、理由ないとだめ?」
「............」

今度は癒凪ゆなぎの目が丸くなった。

「あははっ!癒凪ゆなぎ、目が丸くなった!」

嬉しそうに笑う美月を見つめたまま、ようやく気づく。

自分はずっと、美月の側へ行くための理由を探していた。

役に立つこと。
助けること。
守ること。

そして、恋人ではない自分には、そこへ行く資格がないと思っていた。

けれど美月は。

何の用もなく自分のところへ来ることを、当たり前のように許している。

「......そうか」

ようやく、分かった。

美月は、目をぱちぱちと瞬かせる。

「うん。丸い」

きっと、自分が『目が丸くなった』と言ったことに対しての返事だと受け取ったのだろう。

「それに対する“そうか”ではない」
「じゃあなんの“そうか”?“丸い”のあとに“そうか”ってきたら、もうあとは草加煎餅そうかせんべいくらいしか浮かばないよ?」
「っ......」

癒凪ゆなぎの肩が震えた。

「なんで笑うの!」
「話を全て繋げるな」
「だってお茶があるなら、お煎餅も欲しいよね」

むしろ当然だと言わんばかりの顔で、美月は続けた。

「そこに癒凪ゆなぎまでいるなら、最高じゃん」
「っ......」

今度は、別の理由で声が詰まった。

咄嗟に美月へ背を向ける。

「癒凪ゆなぎ?」
「......少し、待て」
「耳赤いね」
「......熱い茶を飲みすぎただけだ」
「じゃあ冷たいお茶持ってこようか?」
「......いい」

癒凪ゆなぎは、すっかり冷めた茶が残る湯呑みを持ち上げた。

『置いとけ。あとで必要になるぞ』

以津真天いつまでの言葉が、腹立たしいほど当たっている。

美月といると、冷たい茶を飲む機会が増える。

顔が熱い。
胸の奥まで、妙に忙しなくなる。
彼女が笑うたび、おかしなことを言うたび。
自分の名を呼ぶたび。

熱くて、たまらない。

そこで、ふっと。

今まで埋まらなかった空白へ、一つの言葉が落ちた。

「......そうか」

赤みを帯びた顔が、わずかに上がる。

これが、恋なのか。

「あ、癒凪ゆなぎが揚がってる」 

美月が後ろから癒凪を覗き込む。

「......まだ揚がっていない」

返すつもりなどなかったのに、口から自然に出ていた。

美月が笑う。

「じゃあ揚がるまで、ここにいてもいい?」
「揚がらない。だが、好きなだけ過ごせ」

癒凪ゆなぎはもう一つ湯呑みを取り出し、美月の分の茶を注いだ。

「......なんか、癒凪ゆなぎって、自分のパーソナルスペースに長居されたくないイメージだった」
「他は嫌だ」

迷いなく断言する。

「......だが」

そして美月を見る。

「お前なら、いい」

その表情は、これまで美月が見たこともないほど柔らかく、慈愛に満ちていた。

「っ......もー......」

美月が顔を逸らす。

「癒凪ゆなぎ、そんなキャラじゃないでしょぉ......」

美月の頬が熱くなる。

「......どうだろうな」

そう言う声すら、柔らかい。

少し前まで牢獄のように感じていた部屋が、今はまるで別の場所に思えた。

理由などなくていい。
資格もいらない。

ただ隣で茶を飲み、くだらない話をして。
叶うなら、もっと近くに在りたい。

彼らと同じように。
何かをするためではなく、自分がそうしたいから、美月に触れたい。

癒凪ゆなぎは美月を見つめ、今までで一番柔らかく微笑んだ。



自分は―――


―――美月の“恋人”になりたいのだ。




その時。

一階から、激しい物音が聞こえた。

「うわ!お前、火加減見ろっつっただろ!」
「熱ぃんだよ! 俺に火の当番任せんな!」
「拙者も、熱には少々......」
「お前ら水属性なのに火に弱ぇってどういうことだ!」

そう言っているジャジー自身も、火にはあまり強くない。
美月は半目になった。

「あの三人、火に弱すぎでしょ......」

さらに何かが落ちたような音が響く。

「......これ、夜ご飯、何が出来上がってるんだろうね」
「見に行かなければ、炭と化すだろうな」
「じゃあ手伝いに行ってあげよっか」

美月が立ち上がる。

「......美月」
「ん?なぁに?」
「......また」

言葉が一度、喉につかえた。

けれど、飲み込まない。

「またこうして、二人で茶を飲みたい」

言えた。

美月は一瞬だけ目を丸くし、すぐに笑った。

「うん!次はお煎餅も一緒にね!」

二人は並んで部屋を出て、一階のキッチンへ急いだ。

静かになった部屋には、小さな卓と、二つの湯呑みだけが残された。

一つは、美月のために淹れた、まだ湯気の立つ茶。
もう一つは、癒凪ゆなぎが何度も口をつけ、すっかり冷めた茶。

本来なら、湯気が立つのは温かい方だけだ。

けれど、二つの湯呑みが寄り添うように並んでいると、不思議と冷めた方まで同じ温度を纏っているように見えた。

それはまるで。

長い間、冷えたままだった癒凪ゆなぎの感情へ、ようやく。

確かな温度が戻ったことを、示しているようだった。



第8章 本格始動編 - 最終話
後編「あと一歩」
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転生先は隠世!?〜属性過多の妖怪達に愛され過ぎて、念願のスローライフは享年1日で終了しました〜作者:桜桃
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第8章 本格始動編 - 最終話 後編「あと一歩」


大きな影が、窓の外を横切った。

「......で......」

ばさり、と羽ばたく音がして、再び影が窓を横切った。

「......まで......」
「............」

三度目。
今度は通り過ぎず、窓の真正面でぴたりと停滞した。

外からこちらを覗き込むように、大きな妖あやかしの顔が逆光の中へ浮かぶ。

「いつまで?」
「............」

癒凪ゆなぎは、ひどく冷めた目を向けた。

こいつが何のために来たのかは、だいたい分かっている。

だからこそ、できれば相手をしたくなかった。

「いつまで開けねぇつもりだ!」

とうとう大きな妖あやかしが、窓の向こうで叫んだ。

「以津真天いつまで。普通に話せ」
「なんかそのセリフ前も聞いたわ」

先ほどから視界の端を何度も巨大な影が往復している。

考え事をするにも、茶を飲むにも、正直かなり目障りだった。

癒凪ゆなぎは深く息を吐くと、仕方なく窓へ手を伸ばす。

開けた途端、以津真天いつまでは待っていましたとばかりに窓枠へ片足をかけた。

「何の用だ。帰れ」
「『何の用だ』って聞いときながら直後に『帰れ』はねぇだろ!」
「............」

抗議の声も、今の癒凪ゆなぎには半分ほどしか届いていなかった。

壁一枚隔てた隣室から、また声が聞こえたからだ。

「東あづま!歯!歯が当たってる!」
「キスだって頭では分かってる!」
「じゃあなんで口が捕食モードなの!?」
「本能は噛めっつってる!」
「ブラッディキスとか笑えないよ!」
「............」

癒凪ゆなぎの周囲だけ、わずかに影が濃くなった。

その変化を見た以津真天いつまでは、腕を組んで何度か頷く。

「......おーん」
「なんだ」
「前に会ったやつは煮凝りタイプだったが、お前は未完成ドーナッツタイプか」
「意味が分からない」

眉間の皺が一段深くなる。

「まぁ聞けって」

以津真天いつまでは、にやりと口角を上げた。

「内容は、おそらくお前の大事なもんだろ。異様に未処理案件が甘ぇ空気出してる」
「............」

癒凪ゆなぎの頭の中には、疑問符しか浮かばない。

以津真天いつまではそんな反応など気にせず、自分の指で輪を作って見せた。

「外周だけは見事に揃ってる。随分しっかり固まってんな。だが、その真ん中が開いてる」
「......だから、なんだ」

何を言いたいのか、まったく分からない。

「お前がそれを、誰も食えねぇ揚げる前の未完成ドーナッツのままにすんのか。それとも、お前の大事なもんがちゃんと手ぇ伸ばせるドーナッツとして完成させんのか。それ次第で結果が変わるってことだ」
「余計に分からなくなった」

癒凪ゆなぎの眉間へ、さらに深い皺が刻まれた。

「じゃあよ」

以津真天いつまでは笑みを少しだけ引っ込め、目を細める。

「お前、ここで一人で茶ぁすすってて楽しいか?」
「楽しいわけがないだろう」

答えは、考えるより先に出た。

「じゃあなんで、ここで刑期受けてるみてぇになってんだ」

その問いに、癒凪ゆなぎは口を閉ざした。

湯呑みへ視線を落とし、しばらくしてから小さく言葉を落とす。

「......資格がない」
「資格?なんの」
「......彼女の、側に行く資格だ」

以津真天いつまでは少し首を傾げた。

「お前の大事にしてるもん、危険物なのか?」
「その資格ではない」
「じゃあよく分かんねぇけど、資格がねぇと彼女の側に行けねぇの?」
「......違う」

小さな返事だった。
言われてみれば、その問いに対する答えは違う。

「なら行きゃいいだろ」

あまりにも当然のように言われ、癒凪ゆなぎは首を横へ振った。

「それができないから、こうなっている」
「できねぇように自分縛ってんのはお前だろ」

返事は一瞬だった。
癒凪ゆなぎは、何も言えなくなる。

以津真天いつまでは少し苛立ったように翼を揺らした。

「お前、何がしてぇんだ?」

癒凪ゆなぎは黙った。

けれど、先ほど自分の部屋で考え続けていたことを思い出す。

役に立てなくても。
何も与えられなくても。
それでも。

「......彼女の側へ、行きたい」

今度は、はっきりと言った。

「......ふーん」

以津真天いつまでは、その言葉の表面ではなく中身を見るように癒凪ゆなぎを眺めた。

「じゃあ、行ったら満足すんだな」
「............」

また、すぐに答えられない。

側へ行く。
それだけで本当に満足するのか。

「......分からない」
「じゃあなおさら行って確認するべきだろ」

以津真天いつまでの表情が、少しだけ明るくなる。

「行ったら見事に揚がって、無事彼女も食えるドーナッツになるかもしれねぇぞ」
「............」

癒凪ゆなぎは無言のまま、視線だけで圧をかけた。

「怖ぇ怖ぇ。で、いつまで?」

まるで決め台詞のように告げられ、癒凪ゆなぎは一度だけ扉の方を見る。

「......じきに、呼ばれる」

先ほど自分で言った。
終わったら呼べ、と。

「どちらにせよ、彼女のところには後ほど行くことになる」
「じゃあそんとき、その彼女とちゃんと話すことだな」

以津真天いつまではニッと笑った。

「さっきより処理状況が進んだ感じすんな。やっと残尿感みてぇなのが消えたわ」
「汚い例えをやめろ」
「まぁ、あとはなんとかなんだろ」

翼が大きく開く。

癒凪ゆなぎの手元には、いつの間にかすっかり冷めた茶が残っていた。

「お前のせいで茶が冷めた」

苦々しい顔で言うと、以津真天いつまでは肩を揺らして笑う。

「置いとけ。あとで必要になるぞ」
「ならない」
「その言葉、覚えとけよ」

意味深に笑ったあと、以津真天いつまでは窓枠から身を離した。

そして、ふと思い出したように、声の調子を少し落とす。

「......お前のドーナッツの穴はな、“空白”じゃねぇ」
「......何を言っている」
「見通しが良い、甘ぇ窓なんだよ」

癒凪ゆなぎは怪訝な顔をした。

見通し。
これから先、どうなるのか。
甘い。
自分と美月との関係。
窓。
外が見える場所。

そんな意味が込められているなど、今の癒凪ゆなぎには分かるはずもない。

「ははっ!ドーナッツは穴まで含めて美味ぇってことだ!じゃあな!」
「最後まで意味が分からない」

以津真天いつまでは笑いながら夜空へ飛び立っていく。

「見えねぇようで、答えなんかとっくに出てんだよ......」

小さな声だけを残し、その姿は山の向こうへ消えていった。

その直後。

コンコン、と扉が鳴る。

「癒凪ゆなぎー?入っていいー?」
「っ......美月?」

先ほどまでの重たい動きが嘘だったように、癒凪ゆなぎはすぐに扉を開けた。

そこにいたのは、美月一人だった。

「......他は」
「私の代わりにご飯作ってくれるって。いちばん回復してるのジャジーだし」
「......そうか」

胸の奥が、ほんの少し温かくなる。

「で、なんの用だ」

いつもの調子で尋ねると、美月は不思議そうに目を丸くした。

「?なんか、理由ないとだめ?」
「............」

今度は癒凪ゆなぎの目が丸くなった。

「あははっ!癒凪ゆなぎ、目が丸くなった!」

嬉しそうに笑う美月を見つめたまま、ようやく気づく。

自分はずっと、美月の側へ行くための理由を探していた。

役に立つこと。
助けること。
守ること。

そして、恋人ではない自分には、そこへ行く資格がないと思っていた。

けれど美月は。

何の用もなく自分のところへ来ることを、当たり前のように許している。

「......そうか」

ようやく、分かった。

美月は、目をぱちぱちと瞬かせる。

「うん。丸い」

きっと、自分が『目が丸くなった』と言ったことに対しての返事だと受け取ったのだろう。

「それに対する“そうか”ではない」
「じゃあなんの“そうか”?“丸い”のあとに“そうか”ってきたら、もうあとは草加煎餅そうかせんべいくらいしか浮かばないよ?」
「っ......」

癒凪ゆなぎの肩が震えた。

「なんで笑うの!」
「話を全て繋げるな」
「だってお茶があるなら、お煎餅も欲しいよね」

むしろ当然だと言わんばかりの顔で、美月は続けた。

「そこに癒凪ゆなぎまでいるなら、最高じゃん」
「っ......」

今度は、別の理由で声が詰まった。

咄嗟に美月へ背を向ける。

「癒凪ゆなぎ?」
「......少し、待て」
「耳赤いね」
「......熱い茶を飲みすぎただけだ」
「じゃあ冷たいお茶持ってこようか?」
「......いい」

癒凪ゆなぎは、すっかり冷めた茶が残る湯呑みを持ち上げた。

『置いとけ。あとで必要になるぞ』

以津真天いつまでの言葉が、腹立たしいほど当たっている。

美月といると、冷たい茶を飲む機会が増える。

顔が熱い。
胸の奥まで、妙に忙しなくなる。
彼女が笑うたび、おかしなことを言うたび。
自分の名を呼ぶたび。

熱くて、たまらない。

そこで、ふっと。

今まで埋まらなかった空白へ、一つの言葉が落ちた。

「......そうか」

赤みを帯びた顔が、わずかに上がる。

これが、恋なのか。

「あ、癒凪ゆなぎが揚がってる」 

美月が後ろから癒凪を覗き込む。

「......まだ揚がっていない」

返すつもりなどなかったのに、口から自然に出ていた。

美月が笑う。

「じゃあ揚がるまで、ここにいてもいい?」
「揚がらない。だが、好きなだけ過ごせ」

癒凪ゆなぎはもう一つ湯呑みを取り出し、美月の分の茶を注いだ。

「......なんか、癒凪ゆなぎって、自分のパーソナルスペースに長居されたくないイメージだった」
「他は嫌だ」

迷いなく断言する。

「......だが」

そして美月を見る。

「お前なら、いい」

その表情は、これまで美月が見たこともないほど柔らかく、慈愛に満ちていた。

「っ......もー......」

美月が顔を逸らす。

「癒凪ゆなぎ、そんなキャラじゃないでしょぉ......」

美月の頬が熱くなる。

「......どうだろうな」

そう言う声すら、柔らかい。

少し前まで牢獄のように感じていた部屋が、今はまるで別の場所に思えた。

理由などなくていい。
資格もいらない。

ただ隣で茶を飲み、くだらない話をして。
叶うなら、もっと近くに在りたい。

彼らと同じように。
何かをするためではなく、自分がそうしたいから、美月に触れたい。

癒凪ゆなぎは美月を見つめ、今までで一番柔らかく微笑んだ。



自分は―――


―――美月の“恋人”になりたいのだ。




その時。

一階から、激しい物音が聞こえた。

「うわ!お前、火加減見ろっつっただろ!」
「熱ぃんだよ! 俺に火の当番任せんな!」
「拙者も、熱には少々......」
「お前ら水属性なのに火に弱ぇってどういうことだ!」

そう言っているジャジー自身も、火にはあまり強くない。
美月は半目になった。

「あの三人、火に弱すぎでしょ......」

さらに何かが落ちたような音が響く。

「......これ、夜ご飯、何が出来上がってるんだろうね」
「見に行かなければ、炭と化すだろうな」
「じゃあ手伝いに行ってあげよっか」

美月が立ち上がる。

「......美月」
「ん?なぁに?」
「......また」

言葉が一度、喉につかえた。

けれど、飲み込まない。

「またこうして、二人で茶を飲みたい」

言えた。

美月は一瞬だけ目を丸くし、すぐに笑った。

「うん!次はお煎餅も一緒にね!」

二人は並んで部屋を出て、一階のキッチンへ急いだ。

静かになった部屋には、小さな卓と、二つの湯呑みだけが残された。

一つは、美月のために淹れた、まだ湯気の立つ茶。
もう一つは、癒凪ゆなぎが何度も口をつけ、すっかり冷めた茶。

本来なら、湯気が立つのは温かい方だけだ。

けれど、二つの湯呑みが寄り添うように並んでいると、不思議と冷めた方まで同じ温度を纏っているように見えた。

それはまるで。

長い間、冷えたままだった癒凪ゆなぎの感情へ、ようやく。

確かな温度が戻ったことを、示しているようだった。



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