第8章 本格始動編 - 最終話 前編「あと一歩」へ
部屋には小さな卓と、その上に置かれた湯呑みが一つ。
立ち上る湯気は、すでに何度目のものか分からない。
最初に淹れた茶はとうに飲み干し、二杯目も、三杯目も、おそらくもう腹の中へ消えている。
それでも癒凪は、また急須を傾けていた。
濃いめに淹れた茶が、とくとくと音を立てて湯呑みへ注がれていく。
「............」
いつもなら、茶を飲む時間は嫌いではない。
むしろ、好んでいる方だ。
だが、今だけは。
何杯飲んでも、胸の奥にある妙なざわつきが消えなかった。
「......馬鹿か、私は......」
ぽつりと呟き、湯呑みを持ち上げる。
ごくっと、また一口飲む。
だが、それでも足りず、もう一口。
茶の減りだけが、先ほどから異様な速度で進んでいた。
美月の部屋は、すぐ隣にある。
もともとこの家を広げた時、それぞれが過ごしやすいよう部屋は十分に確保されていた。
癒凪自身も、一人で静かに過ごせる場所があることをありがたいと思っていた。
なのに。
今は、この壁一枚が、ひどく分厚く感じる。
美月を寝かせるなら、美月自身の部屋を使う。
そんなことは分かっていた。
それでも、リビングで「口移しで力を送る」という話になった瞬間、癒凪の頭へ最初に浮かんだのは、その場から離れることだった。
自分は恋人ではない。
その事実が、あまりにも明確だったからだ。
ジャジー。
鳳。
東。
三人は美月の恋人であり、美月もそれを受け入れている。
ならば、その三人がいる場へ自分まで残り続ける必要はない。
むしろ、今まで以上に近い距離で触れ合うことになるのなら、自分は退くべきだ。
理屈としては、何も間違っていない。
それなのに。
「............」
湯呑みを持つ指へ、わずかに力が入る。
先ほど、四人が美月の部屋へ入っていく音がした。
しばらく話し声が続いていたが、何を言っているのかまでは、意識して聞き取ろうとしなかった。
いや。
正確には、聞こうとしないようにしていた。
それでも、しばらくして。
「はぁ!?」
ジャジーの叫び声が壁越しに響いた。
癒凪は思わず湯呑みを置いた。
「......力の型が、合わなかったか」
美月は妖力を持つ。
ジャジーは魔力だ。
外から見れば同じように力として扱われるものでも、その性質はまったく違う。
形の合わぬものを無理に循環へ流し込めば、受け取れないこともある。
ましてや、美月自身。
妖力について知っていることは、驚くほど少ない。
出す。
妖力文を作る。
最近ようやく、作物へ注ぐ量の加減を覚え始めたばかり。
残存妖力すら視ることができない。
なら、他者から与えられた力を取り込み、自分のものとして循環させる方法など、知らなくても不思議ではない。
そこまで考え。
癒凪は、無意識に自分の手を見た。
病を引き寄せ、病を沈め、時には病そのものへ干渉する神力を宿す手。
もし自分が、ただの妖力を持つ妖だったなら。
美月へ、力を渡すことができただろうか。
「............」
自分の神力を一般の妖へ与えるには、強すぎる。
ただ力が強いだけなら、量を抑えれば済む。
だが、神力は妖力とは根本から違う。
合わなければ、ただ傷つけるだけでは済まない。
妖としての存在の輪郭そのものへ干渉し、最悪の場合、在り方すら歪ませる可能性がある。
だから、できない。
美月へ神力を流し込むなど、できるはずがない。
「......なぜ」
声が、思っていたより低く落ちた。
なぜ、自分は神として生まれた。
これまで、そんなことを考えたことはなかった。
神であり、疫病神。
それは、自分が選んだものではない。
そういうものとして在った。
だから受け入れてきた。
役目として。
存在として。
それ以上でも、それ以下でもない。
だが今だけは。
「......いらない」
神力など、いらない。
神でなくていい。
ただの妖力を持つ、美月達と同じ妖であればいい。
そうすれば今。
隣の部屋へ行く理由ができる。
美月へ触れる理由ができる。
美月を助ける理由ができる。
そこまで考えたところで。
癒凪の思考が、ぴたりと止まった。
「............」
“理由”。
本当に、“理由”が必要なのか。
妖力があれば、美月を救える。
それは間違いない。
だが。
力を渡し終え、美月が回復したら。
その後は、触れる理由がなくなる。
「............」
癒凪は、ゆっくりと湯呑みから手を離した。
自分は、触れるための口実が欲しいのか?
思考を巡らせた瞬間、胸の奥がまたざわつく。
もし本当に、それだけなら。
恋人達が美月へ近づくたびに、自分の中で何かが沈む理由にはならない。
東が「恋人」と繰り返していた時。
鳳が美月へ柔らかな言葉を向けた時。
ジャジーが美月へ当たり前のように触れた時。
なぜ、自分はあれほど落ち着かなかった。
なぜ今、美月が弱っているというのに、その側へいないことがこれほど苦しい?
役に立てないなら、離れていればいい。
今までの自分なら、そうしていた。
誰かへ病を持ち込む可能性があるなら、近づかない。
誰かを困らせるなら、いなくなる。
それが最善だと思っていた。
なのに。
今、自分の中に浮かんでいるものは。
それでも、側へ行きたい。
ただそれだけだった。
役に立てなくても、力を渡せなくても。
ただ、美月の側へ在りたい。
「............」
癒凪は目を閉じた。
自分は―――
―――美月の、何になりたい?
家族か。
仲間か。
同居人のままか。
守る相手か。
神と、名を与えた者。
どれも間違ってはいない。
だが。
どれを当てはめても、胸の中の空白が埋まらない。
以前、美月から“病害管理隊隊長”と呼ばれた時は、子供じみたその名称でも、嬉しかった。
自分だけにできる役割を与えられたことが。
自分が守れるものを見つけたことが。
だが。
「......違う」
それだけでは、足りない。
畑を守り、家を守る。
そして、病を遠ざける。
それらを全部失ったとしても。
自分は、美月の側にいたいのではないか。
「私は......」
続く言葉は、出なかった。
美月の“ ”になりたい。
そこだけが、どうしても埋まらない。
何度考えても、何度言葉を探しても、空白のままだった。
―――その時。
隣の部屋から、美月の声が聞こえた。
「......深いの......?」
「............」
癒凪の指先が止まる。
続いて聞こえたのは。
「......うむ......」
鳳の声だった。
癒凪は、それだけで状況を理解した。
ジャジーの魔力は、美月の中で循環しなかった。
だから今度は、妖力を持つ鳳が渡す。
同じ妖力なら、そのまま流せる可能性が高い。
理に適っており、正しい判断だ。
「............」
癒凪は、茶を口へ運んだ。
しばらくして。
「っん......ふ......」
かすかに、本当に小さく。
壁の向こうから、美月のくぐもった声が届いた。
「............」
なぜ。
彼女の声だけは、こんなにも鮮明に拾ってしまうのだろうか。
聞こうとしていない。
むしろ、聞きたくないとすら思っている。
それなのに。
耳が、勝手に追ってしまう。
癒凪は、残っていた茶を一気に飲み込んだ。
ごく、と。
自分の喉が鳴る音で、美月の声を消す。
それでも。
頭の中へ浮かぶのは、また美月のことだった。
ちゃんと回復しただろうか。
苦しくはないか。
今日は朝からよく動いていた。
開店前から畑を走り回り、突然増えた客へ対応し、作物を何度も増産した。
昼も、まともに食べていない。
最後に水分を取ったのはいつだったか。
確か、片付けに入る少し前。
ならば喉も渇いている。
腹も減っている。
回復したら、消化の良いものを食べさせた方がいい。
温かい汁物。
あるいは、果物。
「............」
そこで癒凪は、はっとした。
なぜ自分はこんな時まで、美月が次に何を食べるかまで考えているのか。
他の者なら、ここまで浮かばない。
鳳が倒れていても。
東が弱っていても。
ジャジーが魔力を失っていても。
無論、必要な処置は考えるが、その先だ。
腹が減っていないか。
喉は渇いていないか。
眠りやすいよう部屋を整えた方がいいか。
明日の朝は何を食べさせるか。
そんなことまで次々に浮かぶ相手は、美月だけだった。
「......分からない」
今までなら、分からないものは放置できた。
必要になれば考えればいい。
そうして何百年も生きてきた。
なのに。
この感情だけは、分からないままにしておくことが、ひどく落ち着かなかった。
その時だった。
窓の外。
遠くから、声が聞こえる。
「......?」
癒凪が顔を上げる。
人の声だった。
それと同時に。
ばさっ。
ばさっ。
大きな何かが空気を打つ音が、少しずつ近づいてくる。
確実にこちらへ向かっている。
癒凪は湯呑みを卓へ置き、ゆっくりと立ち上がった。
先ほどまで胸の中を埋め尽くしていたものを、一度だけ奥へ押し込める。
そして窓へ視線を向けた。
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