第8章 本格始動編 - 第14話「隠さなくていいもの」
「......むり......」
真っ赤になった顔で、美月は情けなくそれだけ告げた。
「デジャヴ!」
ジャジーは思わず、美月の横たわるベッドへ勢いよく頭だけを伏せた。
確かに送った。
確かに入っていった。
口から直接流し込めた感覚もしっかりと残っている。
それなのに、なぜ美月は未だに布団へ溶けた餅のようになっているのか。
青ざめながら思考を巡らせるジャジーの横で、美月は今にも泣きそうな顔をした。
「魔力って......どうやって、妖力に変えるの......?」
声まで情けない。
「............」
ジャジーが止まる。
「............」
鳳が止まる。
「............」
東も止まる。
そして、三人の視線が一斉に美月へ集まった。
「はぁ!?」
本日二度目だった。
つまり。
ジャジーの魔力そのものは、確かに美月へ入っている。
しかし、美月にはそれを妖力へ変換して、循環させる技術が未履修だった。
「じゃあお前、今俺の魔力どうなってんだ!」
ジャジーが思わず声を張る。
美月は目だけを泳がせた。
「今......私の中で、ジャジーの魔力......宙ぶらりん状態......」
取り込めてはいない。
ただ体内に存在しているだけで、このままなら時間経過とともに外へ抜けていく。
「無駄すぎる!」
ジャジーが天を仰いだ。
いや、キスが無駄だったわけではない。
先ほどの深い口づけで、美月から精気を受け取ったらしく、ジャジーの羽は明らかに色艶を増している。
渡した側だけ元気になり、受け取るはずだった側は未だにふにゃふにゃ。
あまりにも理不尽な結果だった。
「今の感じ......例えるなら......」
美月は弱々しく眉を寄せる。
「目の前に、ストローでしか飲めない物を置かれて......自分にはストローじゃなくて......穴あきスプーンしかない、みたいな......」
「なんだその例え!」
「でもそんな感じなのぉ......」
美月がぐったりする横で、東が遠い目をする。
「お前、マジで俺より妖力初心者じゃねぇか......」
「今日それ二回目だよ......」
美月の心まで瀕死になる。
その時、鳳が静かに前へ出た。
「なら、拙者が送ろう」
「鳳......?」
美月の視線が動く。
鳳は魔力ではなく、妖力を持つ側だ。
属性も美月と同じ妖力なら、変換などせず、そのまま循環へ乗せられる可能性が高い。
そこまで考えた美月は、ふと口元へ手を当てた。
そして、じわじわと頬が赤く染まっていく。
「鳳も......口移し......?」
鳳が一度、口を噤んだ。
「......そなたが手から受け取れぬのであれば、そうなるでござるな......」
そう言いながら鰭のような耳が、じわじわと赤くなっていく。
美月も布団の中で、少しだけ縮こまった。
「......深いの......?」
恐る恐る問う。
「......うむ......」
鳳の声が、いつもより遠慮がちに落とされた。
そんな鳳の声に、美月の羞恥は膨れる。
「恥ずいぃ......」
「拙者も同じでござる......」
鳳は耐えきれず視線を逸らした。
ただし、問題もある。
「拙者も、今日はかなり力を使ったでござる。ここからさらに美月殿へ渡せば、拙者にも何が起きるか分からぬ」
美月は静かに頷く。
「危険があれば、すぐに離す。それまでは拙者が渡そう」
「......ごめんね」
自分が無理をしなければ。
何か食べて、回復していれば。
後悔の念に押され、美月の肩が落ちる。
そんな美月の肩へ、鳳の手が触れた。
「謝る必要はござらぬ。拙者は毎日のように美月殿から頂いておる」
鳳は立ち上がると、ベッド脇へ移動した。
そこにいたジャジーも自然と場所を空ける。
枕元へ肘をつき、鳳は一度だけ美月を見つめた。
「では、行く」
「うん......お願い......」
唇が重なる。
ジャジーとは違い、少しだけ冷たい。
けれど、不快ではなかった。
互いの体温がゆっくり馴染み、鳳の唇がわずかに開く。
それを合図に、美月も少しだけ受け入れるように唇を緩めた。
「っん......ふ......」
流れ込んできた妖力は、温かな川へ浸かるようだった。
強すぎず、荒すぎず。
重かった腕の奥へ、指先へ、足へと静かに巡っていく。
美月の指が、ぴくりと動いた。
身体も、ほんの少しだけ軽くなる。
...............だが。
「っ......」
先に限界を迎えたのは、鳳だった。
急に、美月の匂いが鮮明になった。
新築の木の香り。
寝具。
ジャジーや東の気配。
それらすべてが押し退けられ、美月という存在だけが異様なほどに、輪郭を強めていく。
「...っ......ぅ......」
歯が疼き、喉が渇く。
妖力を失うほど、自分の中にある僵尸側の本能が、補給できるものを探し始める。
鳳は勢いよく唇を離した。
「っ......く......」
手の甲で口元を隠す。
その頃には、美月は自力で上半身を起こせるまで回復していた。
だが、次の問題は鳳だった。
細くなった瞳孔が、美月の手首へ向く。
そして、スッと。
視線が、首筋へ移った。
いつもなら、負担の少ない場所を選ぶ理性が、徐々に効率へ押し流されている。
半開きになった口元から牙が覗き、美月にはその目が、何を訴えているのか分かった。
「鳳......もう夜だし、飲みたいよね......」
夜は、鳳への補給を行う時間だ。
美月は躊躇いもなく、袖を捲る。
すると。
鳳の手が、美月の腕を掴んだ。
「......欲しい」
低い声が落ちる。
一瞬、空気が張った。
「お前......その手、離せよ」
東の声が低くなり、その表情は、わずかな焦燥を含んでいた。
そのまま引き寄せて噛みつくのではないか。
そう思うほど、今の鳳は、本能側へ寄っていた。
「おい、やめろ―――」
ジャジーが身を乗り出す。
その瞬間。
鳳は、空いている片手を静かに上げた。
「欲しい。だが、今はいらぬ」
そして。
美月の捲った袖を、そっと下ろした。
「弱っている恋人からもらうことなど、言語道断。回復してからでよい」
瞳孔はまだ細い。
額には冷や汗が滲み、喉も渇いている。
それでも、その手つきだけはひどく優しかった。
「......うん。ありがと」
美月が笑う。
鳳はそれ以上何も言わず、ベッドから離れると壁へ寄りかかった。
美月の身体に、妖力が巡り始めた。
頭も動く。
指も、腕も、足も動く。
しかし、立って歩くにはまだ足りなかった。
ジャジーが東を見る。
「おい。あとはお前が頼りだぞ」
鳳も、壁へ寄りかかったまま視線だけを向けた。
頼れるのは東だけ。
しかし。
「......俺......」
東は、口元を手で覆った。
それもそのはず。
美月と東は、まだキスをしていない。
鋭い牙がある。
噛みたい本能もある。
もし加減を誤れば、傷つけるかもしれない。
動けない東へ、美月がゆっくり手を伸ばした。
「......東なら、大丈夫だよ」
弱々しい笑みで、そう告げる。
「だから......来て......」
その瞬間だった。
「っ......ぁ......」
東の身体に、変化が起きる。
東の目の、本来なら白い部分は、ごくわずかな桃色だ。
それが、今。
眼球全体が、じわりと赤く染まっていく。
次いで、布が裂ける音がすると。
「......嘘だろ......っ...」
東の驚愕の表情をよそに。
ずるる......と、下半身が魚体へ戻っていく。
「......え......」
美月が目を見開いた。
胸と背中にある、ずっと鰓だと思われていた裂け目。
「っ......待て......っ......」
東自身が、自分の身体へ言い聞かせる。
だが。
当然、止まらない。
裂け目が、ゆっくりと開いていく。
そして―――
―――ぎょろ。
―――ぎょろ、ぎょろ。
無数の目が、一斉に覗いた。
「っな......!」
鳳の顔から血の気が引く。
昔から知る自分すら、一度も見たことのない姿だった。
「お前......それ、鰓じゃねぇのかよ......」
ジャジーも呆然とする。
先ほどまで残っていた甘い空気が、一瞬で消えた。
「っ......わりぃ......ッ!」
東は慌てて胸元の目を腕で隠し、背中側は壁へ押しつけた。
―――荒れていた頃。
他人の血を見た時に、一度だけ出た姿。
あの時、自分を見た相手の顔に浮かんだ恐怖を、今でも忘れていない。
だから、ずっと抑えてきた。
これからも隠し続けるつもりだった。
なのに。
恋人との初めての口づけを前に、抑えきれなかった。
―――終わった。
そう思った。
しかし。
「東。大丈夫だよ」
美月は、まだ手を伸ばしていた。
東は思わず、視線を下げた。
「......無理すんな。気持ち悪ぃだろ......」
きっと、美月だってそう思うはずだ。
都合よく、恋人だけがこの姿を受け入れてくれる奇跡など、普通ならないだろう。
けれど。
美月は、東の想像の、はるか先を行っていた。
「目がいっぱいある人、もうすでに一人いるじゃん」
「......は?」
東の顔が上がる。
「百之鬼さん。腕に目がある人がいるなら、胸に目がある人がいてもおかしくないでしょ?」
あまりにも緊張感のない声だった。
「ふはっ......!」
ジャジーが耐えきれず吹き出した。
「確かにそうだな!」
鳳まで肩の力を抜く。
「うむ。あちらが光側なら、こちらがやや闇側の属性というだけでござるな」
「勝手に闇属性にすんな!」
東の怒鳴り声が戻った。
美月が、ふわりと笑う。
「でも、これでこれからは、隠さなくていいね」
「......そう、だな......」
東も、ようやく笑った。
そんな中。
「じゃあお前、魚体保つときはケツに力入れてるっつってたけど、今まで胸筋と背筋も力入れてたってことか?」
最悪に純粋な質問が飛んだ。
「あぁそうだ」
東は即答した。
「ぶはっ!普通そんな状態動けねぇだろ!」
ジャジーが腹を抱えて笑った。
鳳まで肩を震わせ、下を向いている。
「嫌な筋トレ!」
美月も笑った。
そして。
「......東」
美月は腕を下げていない。
「おう。なんだ」
東は少しだけ落ち着いた目で、美月を見た。
「ちゅーは?」
わずかに頬を染めながら、少しだけ前屈みになる。
あまりにも当たり前のように落とされた、恋人としての甘えを含む言葉。
「......お前......」
じわ......と。
再び、目が赤くなった。
「あ、興奮した?」
美月がにへっと笑う。
「いやするだろ!」
東まで前屈みになって叫んだ。
ジャジーがにやにやと笑う。
「これからこいつの目が赤くなった時は、興奮状態って分かんな」
「わかりたくない状態でござるな」
「お前ら!」
ジャジーと鳳の言葉に声を荒らげる東の顔には、もう苦痛の色など欠片も残っていなかった。
しかし、代わりに。
その隣の部屋ではただ一人、その輪へ入ることのできない男が。
静かな部屋の中で、苦悶の表情を浮かべていた。
第8章 本格始動編 - 第14話
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