第8章 本格始動編 - 第8話「スローライフ労働編、開幕」
雲一つなく、空はどこまでも澄み渡っていた。
近隣から騒ぎの音も聞こえず、管理所から緊急連絡が飛んでくる気配もない。
新居になってから何かと騒動続きだったことを考えれば、拍子抜けするほど穏やかな朝だった。
けれど、美月にとって今日は、ただ穏やかなだけの日ではない。
「開業届は......おっけー。ちゃんと受理されてるね」
自室に置いたデスクの前で、美月は何度目か分からない、許可書や必要物の確認をしていた。
控えの下部には、隠世管理所の承認印がしっかりと押されている。
提出した時にも確認したし、帰宅してからも確認した。
それでも今日という日を迎えると、もう一度見ておきたくなる。
美月は満足げに頷くと、その横へ視線を移した。
「決済札は......」
管理所から札を受け取ったあと、必要妖力の登録を終えたまま、ざんばらに机の上へ広げていた札。
それが、種類ごとにきっちりと整えられていた。
大根、人参、玉ねぎ、じゃがいも、トマト、茄子、ネギの分だ。
「七種類分、ちゃんとあるぞ」
後ろからジャジーが声をかけ、親指を立てた。
羽根の先までどこか得意げで、それを見た美月の顔がぱっと明るくなる。
「良かった!そういえば野菜の数、ちゃんとあるかな......」
確認をするために納屋へ向かおうと立ち上がったところで、ちょうど外から鳳が戻ってきた。
片手には紙と筆記具があり、項目ごとに細かく印がつけられている。
「数としては十分。規格としても十分。重量としても十分でござる。時間停止を解除した後も、目立った変化は見られぬ」
「ありがと!質は大丈夫だった?」
「そこは俺も見たぞ!」
鳳の後ろから、東が元気よく手を上げた。
「全部ちゃんと水分残ってた!触った感じも採れたてとほとんど変わんねぇ!」
そのさらに後ろでは、癒凪が相変わらずの真顔で立っている。
「劣化や腐敗もない。病変も見られなかった。安心しろ」
「みんなありがと!あとは仕上げだね!」
そこまで聞けば、美月にもう迷いはなかった。
あらかじめ作っておいた木製の看板を両腕で抱え、玄関を飛び出していく。
ジャジー、鳳、東、癒凪も、自然とその後ろへ続いた。
畑の入口まで来ると。
「この辺でいいかな」
美月は地面へ、看板の脚を突き立てる。
少しだけ左右へ揺らして安定を確認すると、最後に掌を使い、ぱんぱんと土を固めた。
「よし!じゃあ......!」
立ち上がり、その場で大きく両腕を掲げる。
「スローライフ労働編!本格始動〜!」
高らかな宣言の横で、朝日に照らされた看板が存在感を放っていた。
そこに書かれている文字は。
“美月の福゜福゜農園直売所”
丸みを帯びた文字に、小さな野菜の絵まで添えられている。
美月は自分でもなかなか良くできたと思っているらしく、胸を張って満足そうに頷いた。
しかし、振り返った瞬間。
「......なにその顔」
妙な空気になっていた。
ジャジー、鳳、癒凪の三人が、看板へ何とも言えない視線を向けている。
癒凪に至っては、唇をきゅっと閉じ、ごくわずかに酸っぱいものでも口へ入れられたような顔をしていた。
東だけは普通だった。
「看板も可愛いけどよ、美月の方が断然可愛いぞ!」
「ありがと!じゃなくて他の三人は!?」
美月が指を向けると、沈黙の中からジャジーが重たい声を落とした。
「......気にすんな」
「気になるよ!」
当然即答した。
ジャジーは力なく、ふっと笑う。
「その看板見て、俺らの情緒がちっとばかし死んだだけだ」
ジャジーの背後には、目に見えない影まで落ちているようだった。
悪魔系、それも淫魔として生まれた男が、今後正式に所属する農園の名が“福゜福゜農園”。
どうにも種族的な何かが抵抗しているらしい。
鳳も看板を見つめたまま、静かに頷いた。
「非常に愛いのでござるが......拙者達の器が、わずかに抵抗を示しているのでござる......」
「ん?可愛いでしょ?」
美月には本気で分からない。
「私の“福”に、“ぷくぷく”に育った野菜!それで皆が食べて、満“腹”になるといいなって!」
むふーっと、満足げに胸を張った。
その説明が一つ増えるたび、ジャジーの顔から生気が消えていく。
「おぉぉ......」
とうとう膝から崩れた。
「なんでよ!」
「お前が説明するたびに、俺の種族的プライドが全力で抗議の旗振ってる......」
大きな翼までもが、心なしか萎びていた。
「なんとか手懐けて!」
美月は呆れながら言い返し、そこでふと、自分の周囲を見回した。
ジャジー。
淫魔とハーピーの混血であり、そもそも悪魔系。
鳳。
九千坊河童と僵尸が混ざり、ほとんど神格級。
東。
磯撫でと人魚の混血であり、広い海域を支配する存在。
癒凪。
疫病神と疱瘡神の混ざりもので、分類からして純粋な神格。
「............」
美月は思わず、すっと顔を逸らした。
「どうした」
癒凪が首を傾げる。
「いや......」
肩が震え始める。
「言われてみたら、確かに農作業要員が圧倒的制圧部隊っていうか、最終ステージの四天王すぎて......」
「誰が四天王だ......」
ようやく立ち上がったジャジーが眉間へ皺を寄せる。
東は楽しそうに笑った。
「お前、むしろ魔王だろ」
「見た目だけなら否定はできぬでござるな」
鳳まで頷く。
「俺が魔王なら四天王に美月が入ることになんぞ」
その一言に、東の笑いが止まった。
ふと、以前の記憶が蘇ったらしい。
許可なく美月を抱き込み、勢いのまま下半身の危険物まで押しつけた結果、福徳の乗った平手打ちを真正面から受けた事件。
「前に美月から食らった福徳ビンタ、あれマジで痛かった......」
今は何の痛みも残っていない頬を、反射的に擦る。
「あれは東を止めるだけの力がついただけです」
美月は半目になった。
すると。
ジャジーの目が、じわじわと遠くなる。
「つまりこいつ以上の奴から嫌なことされたら、そいつを止めるだけの力が美月のビンタに乗るってことだろ......」
「理屈としては、そうかもしれないけど」
「美月殿は敵に回せぬでござるな......」
鳳まで遠い目をしている。
「もうなんの話よ!?」
美月の声で二人がようやく現実へ戻った。
しかし、未だに視線の向かう先は、ゆるふわな文字で書かれた“美月の福゜福゜農園直売所”。
ジャジーの顔がまた険しくなる。
「......農園名と構成員のギャップで客が風邪引くぞ」
「そこは最悪、癒凪に治してもらって......」
「私は医者じゃない」
間髪入れずに返された。
「副業外科内科ってことで!」
「副業ということは、何かしら報酬があるのだな」
そこだけはきっちり確認する。
「うぅ......な、なんか用意します......!」
「......なら、考えておく」
癒凪はすっと目を逸らした。
ジャジーはそんな二人を横目に見ながら、直売所予定地をぐるりと見回した。
野菜が傷まないよう、地面には美月が妖力で薄く膜を張っている。
種類ごとの決済札も、それぞれの置き場所へ準備済みだ。
ただし。
「販売するっつー割には、台とか棚とか日除けとかねぇな」
「用意しても、あんな巨大武器サイズの野菜を三個くらい置いたら台が終わるって!」
美月は両手を振った。
普通の大根ではない。
普通の茄子でもない。
美月の福徳と、人間界で行なっていた家庭菜園知識を盛り込んだうえで育った野菜は、何もかも規格の常識から外れている。
そこで美月は腰へ手を当て、一つ咳払いをした。
「ではこれから、福゜福゜農園の長期計画を共有します」
「急に会議が始まったな」
東が楽しそうに笑う。
「まず蔓実さんに、お裾分け持っていきます」
指を一本立てる。
ずっと忘れていた約束だ。
「それ完全にプライベートじゃねぇか」
「はい。なので人が来ないうちに済ませます」
続いて二本目。
「まず、いきなり完売は目指しません」
美月はきっぱりと言った。
「なんでだ?」
「いきなり完売目指すのはハードル高いし、売れなかった時に落ち込むのも嫌だからね。“最初はそんなもん”って思えるように、最初からゆっくり始める!」
美月は大きく頷いた。
そんな美月の様子に、鳳も静かに頷く。
「確かに、段取りは大事でござるな」
「前に鳳に段取りのことで叱られたので」
「叱ってはおらぬ」
さらりと流し、美月は続ける。
「なので、数週間から数カ月は宣伝期間。細々とやる予定です」
美月は胸の前で拳を握った。
「さすが美月!俺の恋人だ!」
東の眩しい声が飛んだ。
その瞬間。
「............」
癒凪が、ほんの少しだけ沈んだ。
しかし美月は、それを見逃してはいなかった。
ぱんっと手を叩く。
「癒〜凪っ」
「......なんだ」
美月は両手の指先を合わせ、少し顔を覗き込む。
「私、苗も売る予定なの。だから病害管理隊隊長、頼りにしてるからね」
「......わかった」
それだけで。
癒凪の目元と口元が、ごくわずかに和らいだ。
「なんか一瞬で機嫌治ったな」
ジャジーが横目で呟く。
「別に機嫌は悪くない」
瞬時に真顔へ戻る。
美月は何も言わず、少しだけ笑った。
「まぁ、数カ月までの見通しはこんな感じで、さらにそこからの数カ月は......」
そこまで言った時だった。
「美月」
ジャジーの声が、横から割って入った。
「ん?なぁに?」
美月が目をぱちぱちと瞬かせる。
目の前には、口角を上げ、楽しげに目を細めているジャジー。
そして、次に告げられる言葉に。
美月は、ただ目を見開くしかなかった。
第8章 本格始動編 - 第8話
「スローライフ労働編、開幕」
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