第6章 縁から宴編 - 第9話「譚生日」
三日月が、ゆっくりと夜の向こうへ姿を隠していく。
代わりに木々の隙間から差し込んだのは、柔らかな朝の光だった。
疫病神は、昨夜から一歩も動かずにそこにいた。
ずいぶん長いこと考えた。
このまま消えるのか。
生きたいと、まだ存在していたいと、他者へ助けを求めるのか。
昨夜までなら、答えは前者で決まっていたはずだった。
だが。
―――『一人で消えないでね』
―――『また来てくださいね』
あの声が、何度も頭の中で繰り返される。
考えれば考えるほど、答えは遠ざかる。
そして。
結論から言えば、堂々巡りだった。
「......」
ふわり、と。
右手の輪郭が、わずかにぼやけた。
「......そろそろ、か」
指先を見る。
見えてはいる。
ただ、そこにあるはずの感覚がなかった。
草に触れても、風が抜けても、何も感じない。
今までも姿が薄れることはあった。
だが、感覚だけは残っていた。
道端に座っていた時の草の感触。
風の心地よさ。
そして。
何も知らず、自分の膝の上へ腰を下ろしてきた、小さな身体の温度。
「......」
疫病神の眉間へ皺が寄る。
こんな時にまで、余計なものを思い出した。
「......馬鹿らしい」
消えてしまえば、きっとその記憶も消える。
美月の声も、あの家の騒がしさも、夕餉の根菜だらけの味も。
「......迷惑をかけるより、いい」
そう、諦めの混じった言葉を落とした時だった。
「よくない」
「っ......!?」
弾かれたように振り返る。
そこにいたのは。
「......なぜ、ここに......」
美月だった。
一人ではない。
その後ろには、ジャジーと鳳まで立っている。
美月の腕には、小さな花束が抱えられていた。
「お花を供えに来たの。それより、詳しいことはあと」
美月は疫病神の前まで来ると、その輪郭の薄れた手へ目を落とした。
ジャジーも目を細める。
「......おかしいたぁ思ってたんだよ」
「......何がだ」
「てめぇ、疫病神なんだろ。名前に神って付いてんのに、普段見える力が並の妖程度しかねぇ」
鳳が静かに続けた。
「疫病神という存在は、伝承によっては妖として語られることもある。ゆえに拙者らも、疫病神殿の力が元よりその程度なのやもしれぬと考えていたのでござる」
「だが昨日」
ジャジーの金色の目が鋭くなる。
「美月が俺らに搾取されてると思った瞬間、てめぇ一瞬、とんでもねぇ圧出しただろ」
「......」
「だったら逆だ。普段が弱ぇんじゃねぇ」
ジャジーは疫病神を真っ直ぐ見据えた。
「めちゃくちゃ弱まってんだろ」
「.........」
沈黙。
美月が一歩、前へ出る。
「......やっぱり」
輪郭の消えかけた手。
昨日より、明らかに薄い。
「管理所で言ってた、“消えかけてる人”って......疫病神さんだったんだね」
もう誤魔化す意味もなかった。
「......あぁ。そうだ」
美月の瞳が揺れた。
「......約束、したのに」
声が震える。
その目に、じわりと涙が浮かんだ。
疫病神は思わず、視線を逸らした。
「......私は、疫病神だ」
「......それ、何度も聞いたよ......」
「昨日まで病が運ばれなかったのは、たまたまかもしれない」
「......」
「お前達は平気だった。だが、他もそうとは限らん」
輪郭の薄い手を握る。
“握る”という動作をしているつもりだが、やはり感覚はない。
「私が存在するだけで、病も、良くないものも運ばれる」
淡々と。
まるで、決めたことを読み上げるように。
「ならば、このまま消えるべきだ」
握った手が解かれる。
すると、美月が一歩、前へと出た。
「なら、私がそれを止める」
迷いのない宣言。
「......無理に決まっているだろう」
「やるの!!」
「......っ」
疫病神の肩が、びくりと跳ねた。
美月の声が森へ響く。
「やり方なんかあとでいくらでも考える!管理所だってあるし、百之鬼さんも縁さんもいるし、使えるものは何でも使う!」
「......美月」
「じゃないと......!」
声が掠れる。
「疫病神さんが、消えるためだけに生まれてきたみたいじゃん......」
「......」
「疫病神って、消えなきゃいけない存在なの?」
答えは返らない。
美月は唇を噛んだ。
「......嘘は言いたくないから、言うよ」
涙を溜めたまま、それでも目を逸らさず告げる。
「疫病神さんが消えることで、安心する人もいるかもしれない。悔しいけど、喜ぶ人だっているかもしれない」
疫病神の瞳が、ほんのわずかに伏せられる。
「でも、確かに」
美月の声が震えた。
「疫病神さんが消えることで泣く人だって、いるんだよ......っ」
ぼろっと、大粒の涙が落ちた。
疫病神の瞳が見開く。
「......」
「誰かが笑うからって、泣いてる誰かの存在まで、なかったことにしていいの?」
「......それは......」
「また一緒に、ご飯食べようよ」
「......そんなことを、望むわけには......」
「いいの!」
即座だった。
「疫病神さんが望まないなら、私が望む」
美月は輪郭の薄れた手を掴んだ。
だが。
触れたはずなのに、何も感じない。
温度も、硬さも、“手を取った”という感覚も。
一瞬。
美月の顔に、はっきりと影が落ちる。
けれど、すぐに袖で涙を拭った。
「......名は、楔」
「......?」
「前に、百之鬼さんが教えてくれた」
美月の脳裏に、以前聞いた声が蘇る。
『個人名は、その個体そのものを固定する強い楔です』
自分で勝手に名乗るだけでは弱い。
誰かがその者を指す名前として呼び。
その者自身も、それを自分の名として受け入れる。
『その相互関係で初めて、確かなものとなります』
そして。
『ですから、名を与えられることは私たちにとって、“ともに生きてほしい”と言われることと同義なのですよ』
美月は疫病神を見た。
「......そんな顔で、私を見るな」
美月を見下ろしていた疫病神の顔が逸れる。
「......どんな顔?」
「......勘違いを起こしそうになる顔だ」
「え」
美月が自分の頬へ触れる。
「でも私、今から凄いことしようとしてるから、あながち間違いじゃないかも」
真っ赤な顔のまま、思ったように言った。
「タチ悪ぃな」
「うむ。今のままでは、宣告された側が意味を判断せねばならぬ」
「今はちょっと静かにしてて!」
後ろの二人を制し、美月はもう一度向き直る。
「......名前」
疫病神の目が揺れた。
「......名を与える意味を、分かっているのか」
「とにかく凄い重さなんでしょ!?知ってるからちょっと詰めてこないで!」
美月は大きく息を吸った。
「ちゃんと、考えたの」
今度は、顔を逸らさない。
「疫病神さんの病の力が、いつか誰かを癒やす方にも向けられるように」
薄れた姿を真っ直ぐ見る。
「今まで抱えてきた不憫さとか、ネガティブな気持ちも、少しずつ凪いでいきますようにって」
そして。
「......そんな名前なんだけど......」
美月は微笑んだ。
「......受け取って、くれる?」
長い沈黙。
やがて、疫病神は深く息を吐くと、感覚のない手で、美月の手を握り返した。
「......そんな贅沢な名を疫病神の私が受け取れば、罰が当たる」
「そこは疫病神さんも神様なんだから、跳ね返すくらいのことはやってよ」
疫病神は少しだけ目を伏せた。
そして、美月からゆっくり手を離すと、祠へ向き直る。
「......友よ」
古びた祠は、何も答えない。
「いつの間にか私には、名を受け取る道しか残っていなかったらしい」
「そう」
美月も隣へ並び、持ってきた花をそっと供えた。
「他の道は私の感情が土砂崩れ起こして塞いだので、迂回する道は受諾ルートしかありません」
「......随分と乱暴な道だ」
「むしろ他の道よりも平らで歩きやすいよ。 “動物が飛び出すおそれあり”の警戒標識があるだけで」
「俺らのことじゃねぇだろうな!」
「ふふっ。さぁどうでしょう」
美月は一度だけ、後ろから声を張るジャジーに視線を向けると、再び疱瘡神の祠へと向いた。
「疱瘡神さん」
美月は両手を合わせる。
「疫病神さんがまたマイナスなこと考えてたら、毎晩枕元に立ってハリセンで引っ叩いてあげてください」
切実な顔で手を合わせる美月に。
「っ......ふ」
小さな声。
美月が目を開き、隣を見上げると。
疫病神の口元が、僅かに上がっていた。
初めて、笑ったのだ。
「......なら」
疫病神は体ごと、美月の方へと向いた。
「甘んじて、受け取らせてもらう」
「......うん!」
美月も笑う。
「あなたの新しい名前は―――」
朝の光が、木々の間から差し込んだ。
「―――“癒凪”」
その瞬間。
淡い白色の光が、疫病神を包んだ。
いや。
もう、疫病神だけではない。
癒凪。
消えていた指先へ、感覚が戻ってゆく。
薄れていた輪郭が、朝日の中へ浮かび上がっていく。
枯れかけていた神力が、ゆっくりと巡り始める。
病の性質が消えたわけではない。
疫病神でなくなったわけでもない。
けれど。
病だけへ向いていた流れの中へ。
ほんのわずかに、別の道が生まれたような感覚だった。
「......癒凪」
自分の名を、初めて口にする。
「うん」
「疫病神が、癒凪か」
「疫病神の個性殺しにかかってんな」
「アイデンティティを殺そうとしたんじゃないよ!必要に応じてコントロールできたらいいなって願っただけ!」
「良い名でござるな。癒凪殿」
鳳が穏やかに笑った。
癒凪はわずかに目を細める。
「......あぁ」
すると。
美月は、ぱんっと手を叩いた。
「よし!じゃあ今日が癒凪の誕生日だから、お誕生日会しに戻るよ!」
「結局飯かよ」
「この世界、娯楽が飯しかないんだよ!」
「しかし、誕生日とは少し違うような気も......」
「......じゃあ」
美月は少しだけ考える。
「言偏に、西に、早で、“譚”生日とか?」
「.........癒凪殿の物語が生まれた日でござるか」
「お前らしいネーミングだな」
美月は満足げに頷くと、くるりと癒凪へ向き直った。
「これからよろしくね、癒凪!」
「......」
「なんで黙るの」
「お前、ほんとタチ悪ぃな」
「なんでよ!」
鳳が苦笑する。
「重き意味を成す名を与え、そのうえ今後も関係を続けたいと宣言したのでござる」
「うん」
「人間界で例えるならば何になるか、美月殿の方がよく分かっておろう」
「......」
美月の顔がみるみる赤くなる。
「逆プロポーズだこれ!」
思わず顔を両手で覆った。
「“ぷろぽーず”とはなんだ」
真面目な顔で癒凪が問う。
「気にしないでいい!ほら、行くよ!」
美月に手を引かれ、癒凪は数歩進んだところで、顔だけを祠へ向けた。
古びた疱瘡神の祠。
昨日までは、そこで共に消えるつもりだった。
けれど、今は。
「......友よ」
今度は、“癒凪”として、柔らかく笑う。
「ともに、こちらに行こうか」
そして、歩き出したその背後に。
ふわりと柔らかな風が吹いた。
追い払うような風ではない。
その新しい道を歩む癒凪の背を、そっと押すような風だった。
第6章 縁から宴編 - 第9話
「譚生日」
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