ホーム民生食堂 あじさい――昭和、雨の工場町で男と女はすれ違う第3話 六畳一間
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第3話 六畳一間

 夕方になって、空が急に暗くなった。
 朝の晴れ間が嘘のようだった。雲が低く垂れ込み、風が湿り気を帯びている。男は仕事を探して歩いたが、何の手応えもなかった。工場の門は閉じたまま、張り紙の募集はすでに古い。声をかけても、返事はつれなかった。

 気づけば、あの民生食堂の前に立っていた。
 用事があったわけではない。帰る場所へ向かう途中で、足が止まっただけだ。 
 暖簾をくぐると、女が一人で後片付けをしていた。
 客はもういない。鍋は火を落とされ、湯気も消えている。

「今日は遅いね」

 女はそう言って、手を止めなかった。

「......仕事が、なかった」

 男はそれだけ言った。
 女は頷かない。

「そう」

 それで終わりだった。

 外で雷が鳴った。
 間を置いて、大粒の雨が降り出す。音はすぐに大きくなり、店の屋根を激しく叩いた。

 男は時計を見た。
 いつもなら、もう帰宅している時間だ。だが、この雨の中を、あの部屋へ戻る気にはならなかった。考えないようにしていたことが、急に現実味を帯びる。

 女が言った。

「帰れる?」

 男は一瞬、答えに詰まった。

「......帰れなくはない」

「そう」

 女は布巾を絞り、吊るした。

 雨脚がさらに強まる。雷が近くなった。

 男は、何かを観念したかのように口を開いた。

「......アパートを出ろって言われてる」

 女は、初めてこちらを見た。

「いつ」

「今月いっぱい」

「なんで?」

「......取り壊すらしい」

「引っ越さないの?」

「仕事を探すうちに金が底をついた」

「そう」

 それ以上は訊かれなかった。
 女は少し考えるように黙り、それから言った。

「ここ、空いてるよ」

 男は、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。

「......ここ?」

「二階。使ってない部屋がある」

 淡泊な一言。
 勧めるでもなく、説得するでもない。

 男は、反射的に首を振った。

「いや、それは......」

「嫌なら別にいい」

 女は淡々と言った。

「この雨だ。何も濡れてまで帰るほどのことじゃないでしょ。そう思っただけ」

 男は言葉を探した。
 世話になる理由も、断る理由も、頭の中で絡まった。

「......一晩だけ」

 そう言ったとき、自分の声が思ったより小さいことに気づいた。
 二階の空き部屋は、六畳ほどだった。
 畳は古いが、きれいに掃かれている。布団は押し入れにきちんと畳まれていた。

「風呂、先に使う?」

「......いや、後でいい」

「そう」

 女はそれ以上、構わなかった。
 男は布団を敷き、腰を下ろした。畳の匂いがした。自分の部屋とは違う。少し湿っているが、嫌な匂いではない。

 夜になっても、大雨は止まなかった。
 下から、食器を洗う音が聞こえる。

 男は天井を見ていた。
 一晩だけ。その言葉を、何度か頭の中で繰り返す。

 やがて音が止み、鍵をかける音がすると、女が階段を上がってくる。

「電気、消すよ」

「ああ」

 男が慌てて布団に潜り込むと灯りが消される。

「それじゃ」

 女は部屋を出ていった。
 暗闇の中で、男は目を閉じた。


 男は物音で目を覚ました。
 朝は、すでに始まっていた。
 階下から包丁の音が聞こえてきた。規則正しい、迷いのない音。男はしばらく布団の中でそれを聞いていた。自分の部屋ではない、という実感だけが、徐々に湧いてくる。
 起き上がると、体が少し重い。だが、不思議と嫌ではなかった。畳んだ布団を押し入れに戻す。畳の縁が少し擦り切れている。意味もなく指で軽くなぞった。

 階段を下りると、女がすでに仕込みをしている。

「おはよ」

 男は一瞬、返事を迷い、それから言った。

「......おはよう」

 女はちらりと男を見る。

「どうする。今日も泊まる?」

 男は、答えなかった。先のことは決められなかった。
 暖簾が揺れ、朝日が差し込む。男は、エプロンもつけずに、流しの前に立っていた。

「......何か、やることあるか」

 男が言うと、女は包丁を置いた。

「洗ってないのあったら洗って」

「わかった」

 ごく短いやり取り。

 男は流しに立ち、昨夜使った湯呑みと皿を洗った。水は冷たく、指先が少し赤くなる。女は横目で見ることもなく、黙々と野菜を刻み続けている。

 朝飯は簡素だった。
 余った豚汁に飯。茄子の漬物が少し。

「食べる?」

「ああ」

 向かい合って座ることはなかった。
 男は台所の端で丸椅子に座って飯を食い、女は立ったままで、鍋の様子を見ながら食べる。

 客が来る前に、男は外へ出た。仕事を探すため。

 夕刻前、男は戻った。
 成果はなかった。だが、何も言わず暖簾をくぐると、女はいつもどおり配膳をしていた。
 何か言おうと思って、喉まで出かかったが、やめた。「おかえり」とも言われなかった。
 ただ、男の分の飯が、自然に用意された。余りものの総菜と飯と味噌汁。
 夜間の混雑を男はただ黙って眺めていた。
 それも終わって客が引けると、男は手伝おうとした。

「何か、やるか」

「じゃあ、床」

 男はモップを取り、床を拭いた。
 力を入れすぎて、端の方の壁まで濡らしてしまう。

「......そこまでやらなくていい」

「すまん」

 謝ったが、女はそれ以上は何も言わなかった。
 夜、二階に上がる前、男は一瞬だけ立ち止まった。

「すまん...... 世話になる」

 女は帳簿を閉じながら言った。

「あたしは別に、構わない」

 責める調子ではなかった。事実を確認しただけだ。

「......そうか」

「布団、湿気しけるから。明日晴れるみたいだし、朝、干しといて」

「ああ」

 言われたのはそれだけだった。

 二階の部屋で、男は布団に横になった。
 階下からは、もう音がしない。
 同じ家にいるのに、距離ははっきりしていた。たった二日とは言え、居候の身には、その距離がありがたいことなのか、それとも突き放されているだけなのか、男には判断がつかなかった。
 男は目を閉じた。今日一日を思い返そうとして、やめた。
 何も起きなかった。何もなかった。それだけは、確かだった。

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民生食堂 あじさい――昭和、雨の工場町で男と女はすれ違う作者:永倉圭夏
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 夕方になって、空が急に暗くなった。
 朝の晴れ間が嘘のようだった。雲が低く垂れ込み、風が湿り気を帯びている。男は仕事を探して歩いたが、何の手応えもなかった。工場の門は閉じたまま、張り紙の募集はすでに古い。声をかけても、返事はつれなかった。

 気づけば、あの民生食堂の前に立っていた。
 用事があったわけではない。帰る場所へ向かう途中で、足が止まっただけだ。 
 暖簾をくぐると、女が一人で後片付けをしていた。
 客はもういない。鍋は火を落とされ、湯気も消えている。

「今日は遅いね」

 女はそう言って、手を止めなかった。

「......仕事が、なかった」

 男はそれだけ言った。
 女は頷かない。

「そう」

 それで終わりだった。

 外で雷が鳴った。
 間を置いて、大粒の雨が降り出す。音はすぐに大きくなり、店の屋根を激しく叩いた。

 男は時計を見た。
 いつもなら、もう帰宅している時間だ。だが、この雨の中を、あの部屋へ戻る気にはならなかった。考えないようにしていたことが、急に現実味を帯びる。

 女が言った。

「帰れる?」

 男は一瞬、答えに詰まった。

「......帰れなくはない」

「そう」

 女は布巾を絞り、吊るした。

 雨脚がさらに強まる。雷が近くなった。

 男は、何かを観念したかのように口を開いた。

「......アパートを出ろって言われてる」

 女は、初めてこちらを見た。

「いつ」

「今月いっぱい」

「なんで?」

「......取り壊すらしい」

「引っ越さないの?」

「仕事を探すうちに金が底をついた」

「そう」

 それ以上は訊かれなかった。
 女は少し考えるように黙り、それから言った。

「ここ、空いてるよ」

 男は、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。

「......ここ?」

「二階。使ってない部屋がある」

 淡泊な一言。
 勧めるでもなく、説得するでもない。

 男は、反射的に首を振った。

「いや、それは......」

「嫌なら別にいい」

 女は淡々と言った。

「この雨だ。何も濡れてまで帰るほどのことじゃないでしょ。そう思っただけ」

 男は言葉を探した。
 世話になる理由も、断る理由も、頭の中で絡まった。

「......一晩だけ」

 そう言ったとき、自分の声が思ったより小さいことに気づいた。
 二階の空き部屋は、六畳ほどだった。
 畳は古いが、きれいに掃かれている。布団は押し入れにきちんと畳まれていた。

「風呂、先に使う?」

「......いや、後でいい」

「そう」

 女はそれ以上、構わなかった。
 男は布団を敷き、腰を下ろした。畳の匂いがした。自分の部屋とは違う。少し湿っているが、嫌な匂いではない。

 夜になっても、大雨は止まなかった。
 下から、食器を洗う音が聞こえる。

 男は天井を見ていた。
 一晩だけ。その言葉を、何度か頭の中で繰り返す。

 やがて音が止み、鍵をかける音がすると、女が階段を上がってくる。

「電気、消すよ」

「ああ」

 男が慌てて布団に潜り込むと灯りが消される。

「それじゃ」

 女は部屋を出ていった。
 暗闇の中で、男は目を閉じた。


 男は物音で目を覚ました。
 朝は、すでに始まっていた。
 階下から包丁の音が聞こえてきた。規則正しい、迷いのない音。男はしばらく布団の中でそれを聞いていた。自分の部屋ではない、という実感だけが、徐々に湧いてくる。
 起き上がると、体が少し重い。だが、不思議と嫌ではなかった。畳んだ布団を押し入れに戻す。畳の縁が少し擦り切れている。意味もなく指で軽くなぞった。

 階段を下りると、女がすでに仕込みをしている。

「おはよ」

 男は一瞬、返事を迷い、それから言った。

「......おはよう」

 女はちらりと男を見る。

「どうする。今日も泊まる?」

 男は、答えなかった。先のことは決められなかった。
 暖簾が揺れ、朝日が差し込む。男は、エプロンもつけずに、流しの前に立っていた。

「......何か、やることあるか」

 男が言うと、女は包丁を置いた。

「洗ってないのあったら洗って」

「わかった」

 ごく短いやり取り。

 男は流しに立ち、昨夜使った湯呑みと皿を洗った。水は冷たく、指先が少し赤くなる。女は横目で見ることもなく、黙々と野菜を刻み続けている。

 朝飯は簡素だった。
 余った豚汁に飯。茄子の漬物が少し。

「食べる?」

「ああ」

 向かい合って座ることはなかった。
 男は台所の端で丸椅子に座って飯を食い、女は立ったままで、鍋の様子を見ながら食べる。

 客が来る前に、男は外へ出た。仕事を探すため。

 夕刻前、男は戻った。
 成果はなかった。だが、何も言わず暖簾をくぐると、女はいつもどおり配膳をしていた。
 何か言おうと思って、喉まで出かかったが、やめた。「おかえり」とも言われなかった。
 ただ、男の分の飯が、自然に用意された。余りものの総菜と飯と味噌汁。
 夜間の混雑を男はただ黙って眺めていた。
 それも終わって客が引けると、男は手伝おうとした。

「何か、やるか」

「じゃあ、床」

 男はモップを取り、床を拭いた。
 力を入れすぎて、端の方の壁まで濡らしてしまう。

「......そこまでやらなくていい」

「すまん」

 謝ったが、女はそれ以上は何も言わなかった。
 夜、二階に上がる前、男は一瞬だけ立ち止まった。

「すまん...... 世話になる」

 女は帳簿を閉じながら言った。

「あたしは別に、構わない」

 責める調子ではなかった。事実を確認しただけだ。

「......そうか」

「布団、湿気しけるから。明日晴れるみたいだし、朝、干しといて」

「ああ」

 言われたのはそれだけだった。

 二階の部屋で、男は布団に横になった。
 階下からは、もう音がしない。
 同じ家にいるのに、距離ははっきりしていた。たった二日とは言え、居候の身には、その距離がありがたいことなのか、それとも突き放されているだけなのか、男には判断がつかなかった。
 男は目を閉じた。今日一日を思い返そうとして、やめた。
 何も起きなかった。何もなかった。それだけは、確かだった。

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民生食堂 あじさい――昭和、雨の工場町で男と女はすれ違う作者:永倉圭夏
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