第4話 越境
朝の音は、もう珍しくなくなった。男はいつの間にか民生食堂あじさいの二階にある一室に寝泊まりするようになった。アパートには帰っていない。あそこには音がなかった。
ここでは鍋の蓋が触れ合う乾いた音、包丁がまな板に当たる音が聞こえる。男は二階の部屋で目を覚まし、そのまま天井を見ていた。起きたり階下に降りる時刻も、いつの間にか決まっている。
階段を下りると、女はいつものようにすでに仕込みをしていた。
男は声をかけず、流しに向かう。昨日の湯呑みと皿を洗う。水を切る場所も、もう迷わない。
女は何も言わない。
男がそこにいることを、特別扱いしない。だが、追い出しもしない。
昼の客が途切れた合間、男は厨房の端に立った。その床を丹念に観察する。
床の一部が、どうにも気になっていた。ほんのわずかな段差だが、忙しい時間帯になると、女の足がしばしばそこに引っかかる。危ない、と思った。
男は何も言わず、倉庫から古い板切れを探してきた。
寸法を測り、削り、段差に合わせる。釘は使わない。簡単に外せるようにしておいた。見た目も、できるだけ目立たないようにした。
女は気づいていたはずだが、何も言わなかった。
小さな板のスロープ上を踏み、少しだけ足を止め、それからいつも通り動いた。
それを見た男は、よし、と思った。手応えを感じた。
別の日、男は棚の位置を少しだけ動かした。
包丁とまな板の距離が、ほんの数センチ近くなる。無駄な動きが減る。効率がいい。金型工の癖で、頭の中ではすでに効率的で理想的な動線が組み上がっていた。
女は、その棚から包丁を取った。
一瞬、手が止まったように見えたが、何も言わない。
男は胸の奥が、少し軽くなるのを感じた。
役に立っている。邪魔ではない。その感覚が、日々を滑らかにした。
夕方、帳簿をつける女の背中を見ながら、男は黙って床をモップで拭いた。
言われたわけではない。だが、言われなくてもやることがある。それが、居場所なのだと思った。
「今日は、客が多かったね」
男が言うと、女は短く答えた。
「そうだね」
それだけだった。
夜、二人は別々に風呂に入り、別々の部屋へ戻る。
同じ家にいるが、一切交わらない。だが、孤独ではない。男はそう思っていた。
布団に入る前、男は一度だけ階下を振り返った。
何も変わっていない。
そう思えたことに、なぜか安堵した。
その夜、女は一人で厨房に立ち、動かされた棚を元に戻さなかった。
戻す理由も、戻さない理由も、口にはしなかった。
ただ、帳簿を眺めていた時に少し長い吐息を吐いた。
翌日。
暖簾を出す前から、男は店にいた。
女がやる前に、男は水を汲み、鍋に足す。火にかけた鍋の水位を目で測り、足りないと思えばためらわず足した。包丁の音が響く前に、床を丁寧にモップで拭く。まだ湿り気の残る板の感触が、足裏に伝わる。きれいにモップをかけた床を見て、男はひとり満足した。
どれも頼まれたわけではない。だが、やらないことには気が収まらなかった。自分の居場所なのだから、手をかけるのは当然だと思っていた。
昼は忙しかった。
雨上がりで、客足が早い。鍋の湯が足りなくなり、女は何度も水を足した。男は言われなくても厨房でも食堂でも帳場でも動いた。皿を下げ、床を拭き、灰皿の吸い殻を捨て、空いた卓を整える。段差に当てた板は、女はもう気に留めない。つまずくことはなかった。
「兄ちゃん、手際いいね」
勘定のついでに、常連の一人が咥え楊枝でそう言った。
男は曖昧に笑った。女の方は見なかった。聞こえていないはずだと思った。それで十分だった。
昼、混み合う時間帯に事故は起きなかった。
湯は切れず、皿も滞らず、客は流れた。それが男には何よりの証拠だった。やってよかった、と思った。
客が引いたあと、女は一息つき、包丁を置いた。
男は流しの前で手を洗っていた。水の音が止まる。
洗った手を拭きながら、男は言った。
声は少し弾んでいたかもしれない。
「雨、上がったな」
女は包丁を置かずに答えた。
「そうだね」
沈黙が流れた。
それ自体はよくあることだった。
だが今日のそれは、どこか違う匂いを帯びていたことに、男は気づかなかった。
「......あのさ」
女の声だった。
低く、いつもと同じ調子である。
男は振り返った。
「勝手なことしないで」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
男は口を開いたが、声が出ない。何と言えばいいのか、分からなかった。
「棚の場所。床の板」
女はエプロンのポケットからチェリーとマッチを取り出し、火を点けながら続けた。責める口調ではない。ただ、事実を並べているだけだ。
「便利かどうかじゃなくてさ、ここはあたしの仕事場」
男は、ようやく言葉を探した。
「危ないと思ったんだ。足、引っかけてたから」
「そう」
女は頷かない。
「でも、決めるのは私」
男は、それをどう受け取ればいいのか分からなかった。
胸の奥に、重たいものが溜まる。怒りではない。屈辱でもない。ただ、理解できなかった。
「......元に戻す」
男はすぐに言った。理解できずとも、彼女にとって良くないことをしたのだとは分かっていた。
「すまなかった。悪気はなかった」
「分かってる」
女は即座に返した。
「それは分かってる」
女は帳簿に目を向け、煙を吐きながら淡々と繰り返した。
それでも、やってはいけないことだった。
そう言われているのと同じだった。
男は板を外し、棚を元に戻した。
寸法も測らず、ただ元あった場所へ戻す。手が少し震えていた。
女は見ていなかった。
煙草を指に挟んだまま帳簿を開き、数字を追っている。
夕方の客が、ぽつぽつ現れ始めた。
男は動くべきか迷い、結局ひとり二階に上がった。
だが彼がいなくとも食堂の仕事は何事もなく回ったようだ。それが男には堪えた。
夜、男は一階に降りた。何か言うべきだと思ったが、何を言えばいいのか分からない。
女は何も言わなかった。
結局黙って二階の部屋に戻ると、男は畳の上に座った。
夕べから夜にかけての忙しい物音が嘘のように、階下から何の音もしない。
いつもと同じように布団を敷く。
それに気づいた男は手を止めた。
ここに長くいるつもりはなかったはずだったのに、いつの間にか当たり前のように布団を敷くようになっていた。
だが男には、改めてそれを畳む気にはなれなかった。
目を閉じても、いつもの包丁の音が頭の中で鳴っていた。
それを明日の朝、聞くかどうかは、まだ分からない。
布団の中で男は考えた。やはり仕事を探すべきなのだろう。
仕事があって家賃でも支払えれば、ここにいてもこんなに気詰まりはしない。仕事もなく、食堂のものに余計な手出しができないのであれば、ただ朝が来て、夜になるのを待っているだけだ。
階下で、女が戸締まりをする音がした。
鍵がかかる、乾いた音。
男はその音を聞きながら、
初めて、ここに自分の居場所はないのかもしれない、と思った。
同じ屋根の下にいる。
だが立っている場所は、もう違っていた。いや、初めから違うところに立っていたことに、気づいていなかっただけかもしれない。
床の段差も、棚の位置も、当たり前のものとして。きっとそれに身体が馴染んでいたんだと思う。それを自分が壊した。そう思うと、胸の奥が重たくなった。
荷物は、ないに等しい。
畳んでしまえば、すぐに出られる。そう思って、男は手を伸ばしかけて、やめた。
男は寝返りを打った。
布団の感触が、ひどくよそよそしい。
▼次回 第5話 夜明け前に発つ