第5話 夜明け前に発つ
空が白み始める前。
まんじりともできなかった男はやおら起き上がる。
腹が決まった。
ここにいたら、それだけで更にここの何かを壊してしまう。男は胃に重たい不快感を覚えながら、小さなバッグを開いた。
バッグへ僅かばかりの衣類を静かに、かつ雑に押し込む。
布団を畳むかどうか、一瞬迷った。が、結局しっかり畳んで押し入れにしまった。
厨房ではいつもの包丁の音はまだしない。男の頭の中で毎朝聞いていた音が幻聴のように甦る。だが今はただ、時折、蛇口から水滴が滴る音が冷え切った静寂を刻んでいるだけだった。昨日使った湯呑みと皿を静かに洗っていつもの水切り籠に置く。
床は以前に男が来たばかりの時より少しきれいになっているような気がした。それに皮肉な笑みを浮かべた。
足音を立てないよう忍び足で、勝手口まで歩いてゆく。
しかし、うっかり醤油瓶を蹴って転がしてしまう。醤油瓶はごとりと鳴った音と共に転がると他の瓶にぶつかって、かちゃかちゃと小さな音をたてる。ぎょっとする間もなく背後から声が聞こえた。
「どこいくの」
男は肝を冷やした。うまく言葉にできない。振り返って女の顔を見る勇気もなかった。
背後から聞こえた女の声は男を責めるものではなかった。
「出てくんだ」
男はようやっと声を絞り出した。
「......ああ」
「そう」
あいかわらず感情の見えない平板な声を発する女。
「その、世話になった......」
女は男の背中にいつも通りの声をかける。
「別に」
「アパートに帰る」
「立ち退きするんでしょ、そこ」
女は煙草にマッチで火を点ける。マッチ棒を床に放り捨てる。
「あ、ああ、うん」
女は何も言わなかった。
「じゃあ......」
男はドアノブに手をかけてゆっくり回す。
「うん」
女もそれ以上は何も言わなかった。
男が勝手口から外に出ると、背後ですぐ、突き放すようにぞんざいな金属音を立てて鍵がかかる。
白み始めた空の下、男はしばらく立ち尽くしたままだった。最初の一歩が鉛のように重い。
だが、一歩を踏み出したら、あとはいつもより少しゆっくりだが歩みを進められた。
これでよかったんだろうか。
煙突と工場と塀に囲まれた迷路を、男は歩き続けた。
▼次回 第6話 無為