第2話 温もりの理由
二日間、男は昼をあんパンとジャムパンで済ませた。
どちらも駅改札脇のキヨスクで買える。安いし、それなりに腹にも溜まる。そう思っていたが、仕事を探して歩き回った午後には、どうにも物足りなかった。空腹というより、胃の腑の奥が落ち着かない。口に甘さだけが残り、噛んだ実感もなかった。
三日目の昼、男は傘を差したまま立ち止まった。
そのままキヨスクへ向かおうと思っていたが、足が勝手に別の方へ向いた。あえて理由をつけるなら、温かいものが欲しかっただけだ。雨も小止みだ。忍ぶほどの恥だってかいちゃいない。みんなもう忘れてる。そう自分に言い聞かせ、民生食堂あじさいの暖簾をくぐった。
店内は、前と変わらない。
鍋の音、味噌の匂い、小さな音量のテレビ。午後の歌番組が流れていた。内山田洋とクール・ファイブの「噂の女」が流れていた。昼時も過ぎていたからか、客はまばらでいつもより静かだった。
女が気づく。
「あら、久しぶり。だいぶ消えたね、あざ」
相変わらず無感情な顔と声だった。
男は一瞬、何か言い返そうとしてやめた。一瞬何か思いついたが、それもすぐに消えてしまっていた。
「なにがいい?」
女はショーウィンドウの中を見る。
男も同じように視線を動かす。
「塩サバ......と、大豆の煮物と、ひじき煮」
女は頷き、手際よく皿を取る。前回と同じ動き、同じ速さだった。茶碗の飯と豚汁が添えられ、ショーケースの上、男の前に置かれる。言葉はない。
男は席に着き、箸を取った。
一口目で、はっきりと分かった。塩気がある。噛むと、しっかりとした歯応えがある。温かい。胃の腑の奥に落ちていくのが分かる。
あんパンとは違った。
自分はこんなにも空腹だったのか、とその時初めて気付いた。二日分がまとめて、遅れてきたような空腹だった。
周囲の客は、男を見なかった。
女も見なかった。ただ、配膳を続けている。
男は飯を食い終えても、すぐには立たなかった。
テレビの音を聞きながら、湯気の消えた豚汁の椀を見つめていた。
ここに戻ってきた、という感覚だけが、じわりと胸に沁みてきた。
食堂を出ると、外はすっかり晴れていた。
昼の雨が嘘のように、路面は乾き始めている。男は立ち止まり、工場と煙突の影に切り取られた空を見上げることもなく、歩き出した。腹の奥に、まだ温かさが残っていた。
帰り道は遠く感じなかった。
足取りが軽いとまでは言わないが、背を丸めて歩くことはなかった。
部屋に戻ると、湿った空気が彼を迎える。
窓は閉め切ったままだ。畳の隅がわずかに黒ずんでいる。流しには、朝使った湯呑みが伏せて置かれていた。
男は上衣を脱ぎ、畳に放るように置いた。
洗う気にはならなかった。どうせ、明日も着る。
机の上の工具箱には、古い工具が並んでいる。
ノギス、ヤスリ、小さな金槌。どれも手に馴染んでいるが、もう使う場はなさそうだ。男はノギスを手に取り、指で挟み幅を確かめるようにスライダを動かした。目盛りを読むことはしなかった。今の彼には、その数値に意味を見出せなかった。工具箱にノギスを放り投げる。
新しい技術と工作機械の普及は、かつての職工たちを現場から追い出した。工場経営者は、高給で育成に時間を要する「ベテランの勘」よりも、未経験者でもボタン一つで均一な精度を出せる「自動化システム」を求めていた。
金属からプラスチックへの素材転換、そしてオイルショックによる深刻な不況。それら全てが、古い金型技術しか持たぬ男の再就職を阻む、重い足枷となっていた。
夕方になって、腹が鳴った。
昼に食ったはずなのに、もう足りない気がした。
男はキヨスクで買ってきたクリームパンを一つ、机の上に置いた。包装を剥がし、半分に割る。甘い匂いが立つ。噛むと、すぐに潰れた。歯ごたえはない。
昼に食ったサバの歯ごたえと塩気を、思い出してしまう。
それを打ち消すように、男はもう半分を口に入れた。
ラジオをつける。
軽い音楽と、景気のいい話が流れる。新しい工場、増産、明るい経済。男は音量を下げた。しかし、消しはしなかった。
畳に横になり、天井を見る。
小さな染みがいくつもある。数えたことはない。
あじさいの暖簾。木綿の感触が、なぜか指に残っていた。
昼に女と交わした言葉は、ほんの数語だけだ。名前も聞かれていない。聞こうともしなかった。自分もそうだった。
それでも、飯は出てきた。
手際よく、いつも通りの速さで、いつも通りの分量で。
男は目を閉じた。
明日どうするかは考えなかった。考えなくても、また日が昇ることだけは分かっている。
外で、どこかの工場のサイレンが鳴った。
それを合図のように、男はゆっくりと深呼吸をした。
腹の奥に残った温かさが、消えないまま夜になった。
また明日、男は仕事を探しに行く。
民生食堂に行くかは決めかねていた。でもこの温もりはどこか懐かしかった。
そして男が思った通り、明日がやってきて今日になる。
夜明け前に雨は止み、朝から空は晴れ渡っていた。煙突と工場に切り取られた青空が男の頭上にあった。
舗道に残った水たまりも、午後の陽に照らされて薄くなっている。男はその上を避けるでもなく歩き、くたびれたズックを濡らし民生食堂あじさいの前に立った。こんな時間に暖簾はまだ出ている。
中に入ると、もう客はいなかった。
鍋の音と、包丁がまな板を叩く乾いた音だけがする。
「また来たんだ」
女は手を止めずに言った。
「ここのおかず、そんなに気に入った?」
男は一瞬、返事に迷った。
気に入った、と言うほどのものではない。だが、違うとも言い切れなかった。
「......なんていうか、温かいな」
女が表情も変えず、ちらりとこちらを見る。
「ええ? 冷めてるけど?」
男は小さく首を振った。
「そういうんじゃないんだ。 ......うまく言えないが、温かい。それは本当だ」
女は、男には判らないほど、ほんの少しだけ口角を動かした。
「ふうん」
それ以上女は訊かなかった。
「なににする?」
「アジの開きの半切れと...... 肉じゃがと白和えで。あと、豚汁」
女は黙って皿を取り、盛り付ける。茶碗と豚汁を添え、男の前に置いた。
「はい」
男は礼を言わず、箸を取った。
店内は静かで、床に伸びた午後の陽が短くなっている。男が飯を食い始めると、女は厨房から出て食堂のテーブルを拭き始めた。
拭き終えると、布巾をもてあそびながら男の向かい側にどかっと座る。
距離が近い。ただ座っているだけで、話を振る様子もない。女は足を組んで、エプロンのポケットから「チェリー」とマッチを取り出すと煙草に火を点ける。少し歪んだアルミの灰皿にマッチの燃えさしを放る。
男は箸を進めながら、居心地の悪さを覚えた。
凝視されている感じはしなかったが、誰もいない店内で、女がすぐそばにいる。それだけで、何だかひどく気まずかった。
「......仕事は? 何やってんの?」
女が、煙を吐きながら不意に言った。
問い詰める声ではない。天気を聞くのと同じ調子だった。
男は一度、箸を止めた。
「......金型をやってた」
「ふうん」
それだけだった。
「前の話だ。今は......」
男は言葉を切った。
お椀と箸から手を放し、膝の上に置く。言う必要なんてあるはずもないのに、口が勝手に動いた。
「今は、仕事がない。探してはいるが、俺がやれるような金型を扱う工場が減ってて......」
女はうなずきもしなかった。
ただ、男の茶碗が空きかけたままお盆に置かれているのを見ていた。アルミの灰皿に、指で挟んだ煙草の灰を落とす。
「そう」
それで終わりだった。
男は、拍子抜けした。哀れむでも、励ますでもない。理由を聞くことも、助言をすることもない。
しばらく沈黙が流れる。
男は飯を食い終え、箸を揃えた。
「ごちそうさま......」
男が喉から絞り出すように言葉を吐く。
「......あの」
女が顔を上げる。
「一昨日も、その前も、ここに来ていいのか。迷っていた」
「来たらいいじゃない」
即答だった。
「あんた言ってたじゃない。ここは、飯を出すとこだよ。出禁にした覚えもないし、来ちゃいけない訳なんてある?」
男は何も言えなかった。
女は立ち上がり、お盆を下げる。
「今は客もいないし、出てってもいいし、座っててもいい。好きにしな」
男は、うなずいた。
女はくわえ煙草で灰皿を持って厨房へ戻り、また包丁を手に取った。朝と同じ音が戻る。
男は、しばらくその場に座っていた。
温かい、という言葉の意味を考えようとして、やめた。
考えなくても、とりあえず今、腹は満ちて温かい。
それだけで、今は良かった。
▼用語
新しい技術:
工作機械をコンピュータで数値制御(Numerical Control)する技術。設計図を数値データ化することで、機械が自動で鋼材を削り、精密な金型を製作する。熟練工の「勘」や「手加減」をプログラムに置き換えたことで、複雑な形状の金型を短期間で正確に複製することが可能となり、工業製品の圧倒的な量産体制を支える基盤となった。
▼次回 第3話 六畳一間