第1話 拳と女
昭和。
イギリスのエリザベス女王が来日し、ベトナム戦争が終結した年の頃。
今日も朝から雨が降り続いていた。
強くはないが、止む様子もない、じとじとと湿度が身にまとわりつく雨。軒下に溜まった水は澱み、土と古い木材と排煙の匂いが混じって、民生食堂の裏口にこもっていた。
見上げれば煙をあげる煙突。視線を戻せば工場と壁。灰色の雲を背景にそびえる何本もの煙突と工場の壁。工場から上がる金属を叩く音。それらに囲まれた小ぢんまりした空間。まるで外の人々から忘れ去られたかのような場所にその食堂はあった。
女は一人で仕込みをする。
袖をまくり、鍋に水を張り、火を入れる。包丁の刃を軽く拭いてから、野菜を刻む。どれも手慣れた動作だ。毎日素早く規則正しく刻む。
壁際の板張りは湿気を吸って色が濃くなり、その継ぎ目を、灰色がかったナメクジが一匹、ゆっくりと這っていた。
女はそれを見つけると、少しだけ眉をひそめたが、声もあげない。近くにあった古い箒の柄で、窓からそっと外へ落とす。踏み潰すでもなく、ただ視界から遠ざけるだけ。
ふつふつと鍋が静かに鳴り始めた。
女は蓋を開け、浮いてきたアクをすくい取る。湯気が顔にかかる。頭に巻いた手拭いを巻いた頭からのぞいた前髪が少し額に貼りつく。布巾で手を拭き、次の鍋へ移る。その間にも、流れるような雨音は途切れない。
民生食堂はまだ開いていない。
それでも、外にはすでに何人かの人影が見えた。軒下で雨を避けながら、黙って待っている者もいれば、落ち着きなく足踏みをしている者もいる。顔ぶれはだいたい決まっていた。
女は食堂内の時計を見る。
開店にはまだ少し早いが、これ以上仕込みを延ばす意味もない。
包丁を置き、手を洗い、入口の暖簾を手に取る。表に出ると、外から大きな声が聞こえてきた。何か罵るような、湿った怒声。続いて、若い声がそれにかぶさり、言葉が荒くなっていく。
女は一瞬、手を止めた。
それから、暖簾を持ち直すと、何事もなかったかのように表へ向かう。女がかけた暖簾は紺地に白で「あじさい」と染め抜かれていた。入り口の傍らには雨に打たれた青いあじさいが重たげに頭を垂れている。
今日もまた、同じ一日が始まろうとしていた。
客が暖簾をくぐり始めると、湿った空気がそのまま食堂の中へ流れ込んできた。
すぐに七、八人が店内に並ぶ。いつもの顔ぶれだ。誰もが口を閉ざし、ただ雨音と、鍋の煮える音と金属製の食器が鳴る音だけが沈黙を埋めていた。
その沈黙を破ったのは、列の後ろの方に並んでいた老人だった。
痩せた体を前に突き出し、濡れた作業着のまま、低い声で何事かを呟いていた。最初は独り言のようだったが、次第に音量が上がり、言葉に角が立ち始める。さっき店外で聞こえた声と同じだった。
「おい、どうなってやがる...... 並ばせといてこれか。遅えんだよ。年寄りは後回しかよ、おい!」
女はまだ厨房にいた。
老人の声は、店内の湿気をさらに重くする。周囲の客は視線を伏せ、誰も応じない。
すると、少し後ろにいた若い職工が、苛立ったように顔を上げた。
油と鉄の匂いが染みついた作業服。まだ若い。二十代半ばか。
「おお、うっせえな。順番だ。文句あんなら外で言ってろ」
老人はそれを聞くと、はっとしたように顔を上げた。
血走った目が若者を捉える。
「なんだ、青二才が偉そうに。ろくな仕事も出来ねえくせしてよ。お前らみたいなのが、俺たちの足引っ張んだ」
「冗談言うなよ。てめえみてえなロートルに何ができんだ。あ? 何言ってんだ偉そうに」
空気が一気に張りつめる。ふたりは近寄って睨みあう。
リノリウムの床が鳴り、誰かが息を呑む音がした。
そのとき、最後尾に立っていた男が、一歩前へ出た。
背は高くない。作業着姿ではないが、シャツもズボンもすっかり色褪せ、袖口が擦り切れている。顔立ちは穏やかだが、どこか疲れが滲んでいた。
「やめてくれ」
男の声は大きくなかった。
「ここは飯を食う場所だ」
だが、二人の狙いが逸れるには、充分だった。
老人が男を睨む。
「なんだ、お前は。関係ないだろ」
「関係ある。これ以上騒がれると、みんなも迷惑だ」
若い職工も、舌打ちをして男を見る。
「おいあんた、どっちの味方だよ。はっきりしろ」
男は一瞬、言葉に詰まった。
どちらの味方でもない。それをどう言えばいいのか、分からなかった。だからそのままを口にしてしまった。
「......どっちでもない。ただ、殴り合うような場所じゃない、と」
それが、引き金だった。
老人が立ち上がり、男の胸倉を掴んだ。
同時に、若い職工も一歩踏み出す。
「若造が!」
「説教すんな!」
拳が飛ぶ。
最初に当たったのがどちらの拳だったのか、男には分からなかった。頬に鈍い衝撃が走り、視界が白く弾け星が飛ぶ。続いて腹に衝撃。息が詰まる。
「おい、やめろ!」
誰かの声がしたが、もう遅い。
老人の拳は震えていたが、若い職工の拳は重かった。男は反撃しなかった。ただ腕を上げ、耐えるだけだった。
床が滑る。
濡れた靴底が踏ん張り切れず、男はよろめいた。
そのとき、鋭い声が店内を切り裂いた。
「やめなさい!」
女だった。
いつの間にか厨房を出て、食堂に立っている。麺棒を握っている。
「二人とも、出て行って。今日で出禁」
その声に、老人と若い職工の動きが止まる。
女は二人を等しく見た。憤りも同情も、その顔には浮かんでいない。麺棒を握る手も震えず、力強く握られている。
「ここは殴り合う場所じゃない。この人が言ったみたいに、飯を食う場所」
沈黙が食堂内に充満する。雨音だけが、やけに大きく聞こえた。
女は続けた。
「二人とも、もう来ないで」
老人は何か言い返そうとしたが、言葉にならず、舌打ちして外へ出ていった。若い職工も、悔しそうに男と女を一瞥し、後を追う。
扉が閉まり、雨の音も遠のいたように聞こえる。
男はその場に立ち尽くしていた。
口の中に鉄の味が広がる。唇が切れているのだろう。視界が少し揺れていた。
女は男を見る。
「......あんたは、そこ座んなさい」
命令口調だったが、声は穏やかだった。
男は頷き、椅子に腰を下ろす。手がわずかに震えている。
女は布巾を取り、水を張った洗面器を持ってくる。
そして、何も言わずに、男の顔の血を拭き始めた。
その手つきは荒っぽかったが、悪意は感じなかった。
男は、礼を言おうとして、痛さで言葉を飲み込んだ。
雨は、まだ止みそうになかった。
一通りの手当てが終わると、何も言わずに女は傍らのテレビをつけた。「昼のプレゼント」が流され、軽妙なアナウンサーの声が虚しく響き渡る。そして、布巾と洗面器を持って厨房に戻り黙って配膳を再開する。民生食堂の中に、再び鍋の音が戻ってきた。食堂はいつもより静かだった。
ようやく注文が始まった。口々に好みの総菜を頼むと、女はそれを手際よくお盆に乗せ、茶碗の飯と、希望があれば味噌汁の代わりに豚汁をつけて渡す。
最後、先ほど仲裁に入った男がショーウィンドウの前に立つ。女は特に表情を変えずに言った。
「いいご面相ね、お節介さん」
「え?」
「うち帰ってから鏡見てご覧なさいよ」
「ああ......」
男は痛む顔を押さえた。あざができているのだろう。
「なにがいい?」
「あー、サトイモ、シャケ、お浸し...... それで」
女はてきぱきと注文の品と、茶碗一杯のご飯とみそ汁を合わせて乗せ、男に渡す。
「はい。余計なことには手を出さない方がいいよ」
「ああ」
男はその一言こそ余計なお節介だと思ったが、何言わず黙って受け取り、席に着いた。
ちらちらと自分を覗き見る人々の視線を感じながら、男は黙って飯を食った。
▼用語
民生食堂:
「米騒動」を契機にして、大正七年(一九一八年)より都市部の貧困層対策として、自治体の直営または補助により「簡易食堂」や「公設食堂」と称する食堂が設営されたのが源流とされる。
昭和十六年(一九四一年)より「外食券食堂」に統合されても「労務食堂」、「罹災者給食」、「食困窮者給食」などと形を変え例外的に運営された。
昭和二十一年(一九四六年)、東京都は再び統合された戦時的な要素の強い既存の「外食券食堂」の中から指定を行う形で「東京都指定民生食堂」制度を開始した。
安価で栄養価の高い食事の提供を主眼とし、昭和二十五年(一九五〇年)から昭和三十年代にかけて、質素な一汁三菜のおかずを自由に選べるカフェテリア様式の店舗が普及した。
昭和四十四年(一九六九年)、米穀配給制度の緩和により「外食券食堂」としての機能が実質的に終了した後も、自治体の指定制度として存続したが、外食産業の多角化に伴い減少。平成七年(一九九五年)三月三十一日をもって指定制度は完全に廃止され、その公的役割を終えた。
指定終了後も、かつての屋号や看板を掲げ、当時の形態で営業を継続している「元民生食堂」の店舗が、現在も都内にわずかながら現存している。
▼次回 第2話 温もりの理由