第9話 高架下
嵐が過ぎ去ったその翌日。
男はもうアパートにはいられなくなった。
少しだけ時間をもらって、着られるだけの服を着て、バッグに貴重品を詰め込み、ラジオを持つ。しばらく考えたのち、工具箱も掴んで表に出た。アパートの傍らで呆然と立ち尽くす。
足場を作る作業員の邪魔だと気付いた男は、ゆっくりと歩き始め、狭いアパートの敷地を出る。行く当てなどない。
ため息を吐きながらあてどもなく町をさまよい、工場の壁に囲まれ湿気とガスが充満する公園で立ち尽くし、時間を持て余す。これからについて考えようとするが何も思いつかない。ラジオを点けるがそれはただの雑音として公園内にかすかに拡がるばかりだった。
着ぶくれで暑い身体を冷ますため、高架下にある背の低いモルタルの歩行者用トンネルへ行く。そこは乾いた場所もあり男は地べたに腰を下ろすことができた。
モルタルの冷たさに身体を憩わせる。今夜はここで寝ようか。
今夜。そう今夜。夕飯について考えた。財布の中を覗くとあと一週間は何とかなりそうだ。一日一食なら。
男はモルタルの壁に背中を預け、胡坐をかいたままうつらうつらする。頻繁に行き来する列車の轟音もものともせず、男の意識は遠のいた。
何もかもがどうでもいい。
浅い眠りの中で民生食堂の新じゃがと烏賊の煮物の味が夢となって現れた。
「なにやってんのあんた」
女性の低い声が小さなモルタルのトンネル内で反響した。聞き覚えのある声だった。男は目を細めて声のした方を見ると、そこには自転車に乗った女がいた。前後の自転車のカゴに、買い物籠一杯の食材をつめて溢れそうになっている。
「寝ている」
男はぞんざいに答えた。
「だから、なんでここで」
「アパートを追い出された」
「ああ」
女は合点がいったように短く応じ、それきり黙った。
電車の通過音が、身体をビリビリと振動させる轟音となって、ふたりに覆いかぶさる。
静かになったところで、女は口を開いた。
「うち来る?」
それに被さるようにもう一本列車が通過する。
「なんだって?」
「だからうちくる? って訊いてるの」
「ああ」
男はまた逡巡した。だが、いくら考えを巡らせても答えは出ないことは判っていた。それなら、と男は命を守る選択をした。
「今日だけでいい」
「そう」
女が自転車を降りると、男もゆっくりと立ち上がって、並んで歩く。
「笑わないのか」
男は訊いた。
「何を?」
女の声は怪訝そうだ。
「この格好」
女はいつもと全く同じ声で返した。
「別に」
民生食堂に着くと、女は男に着替えるように、と二階へ行かせる。男は二階の、かつて自分が寝泊まりしていた部屋で、限界まで着込んだ服を脱ぎ捨てて一階へ降りる。自分が使っていた湯呑みを見つけ水を二杯飲んだ。
男は何か手伝おうか、と言おうとして止めた。
互いに黙ったまま、男はテレビや女や食堂内を眺め、女は聞き覚えのある包丁の音を響かせる。
「食べる?」
女が訊いてきた。
「......ああ」
男は答え、茶碗一杯の飯と豚汁と塩気の強い焼鮭で早い晩飯を済ませた。
開店時間が来ると行列していた客が、いつものように隊列を守って入店してくる。いずれも倦んだ眼をしていた。
男はそっと二階に上がり、切り盛りは女に任せた。ラジオでナイター中継を聞いて時間をつぶす。
閉店の時間になると男は一階に降りた。また客席の一角に座ってテレビを流れるままにして眺めている間に、女は片付けを済ませる。
女のあとに男が風呂を浴び、おやすみのあいさつもなく、それぞれの部屋で寝る。
男はとりあえず今日を生き延びることができた。
▼次回 第10話 条件