ホーム›民生食堂 あじさい――昭和、雨の工場町で男と女はすれ違う›第8話 雨の夜
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第8話 雨の夜

 翌日も男はあじさいに行った。

「職安に行った」

「うん」

「仕事はなかった」

「そう。十円のお返し」

「うん」

 会話はそれだけだった。

 その翌日も男は行った。

「治部煮と小アジの南蛮漬けと南瓜」

「......」

 男は女からお盆を受け取ると席につき、音のよく聞こえないテレビを横目に黙々と飯を食った。

 天気予報では今日は晴れる予報だった。

 だが、空は急に暗くなり、暴風雨となってしまう。

 ほとんどが傘を用意していない客たちは、逃げるように店を出ていく。風に吹き飛ばされそうになりながらも、頭を手や鞄で覆って走り去っていった。傘を持っていた客もかえって吹き飛ばされそうになって、傘を差すのを諦めた。

 またもや男だけがポツンとひとり取り残される。

 女がテレビのダイヤルでチャンネルを回すと、気象情報をやっている番組を見つけた。大雨洪水警報が出ていた。

「降ってるな」

「ん」

 短いながらも言葉を交わす。また男の向かいに女が座って煙草に火を点けたが、男はそれにも少し慣れてきていた。

 男は雨が弱くなるのを待っていたが、一向にその気配はない。
 閉店時間も近づいてくる。

 壁を灰色がかったナメクジが一匹、ゆったりと這っていた。
 女はそれを見つけると、いつも通りに古い箒の柄で、窓からそっと外へ放り落とす。
 窓を閉めると、女は煙を吐きながら漏らした。

「今日、泊まってく?」

「え」

 男はその一言に身を硬め、言葉を失う。
 沈黙は長かった。
 
「......いや、いい」

 ようやく絞り出した声。

「そう」

 いつも通りの、短すぎる返答。

「アパート、どうするの」

「......どうしようもない。金がない」

「そう。誰かから借りれないの」

「借りるあてがない。周りで金払いの良いやつを俺は知らない」

「ふうん」

 そのあとはただ沈黙が続いた。
 このままではアパートは取り壊され、男は仕事もないまま立派な「浮浪者」になってしまう。だが今の男に何ができるというのか。彼は弱々しく自身の無力さを噛みしめていた。

 閉店時間まで粘ったものの、風雨が収まる気配はない。

「じゃあ」

 女はその言葉には応えず、ただ灰皿を見つめている。腹を括った男は、轟音の鳴り響く雨中へと身を投じた。

 まるで滝行でもしているかのようだった。

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民生食堂 あじさい――昭和、雨の工場町で男と女はすれ違う作者:永倉圭夏
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「職安に行った」

「うん」

「仕事はなかった」

「そう。十円のお返し」

「うん」

 会話はそれだけだった。

 その翌日も男は行った。

「治部煮と小アジの南蛮漬けと南瓜」

「......」

 男は女からお盆を受け取ると席につき、音のよく聞こえないテレビを横目に黙々と飯を食った。

 天気予報では今日は晴れる予報だった。

 だが、空は急に暗くなり、暴風雨となってしまう。

 ほとんどが傘を用意していない客たちは、逃げるように店を出ていく。風に吹き飛ばされそうになりながらも、頭を手や鞄で覆って走り去っていった。傘を持っていた客もかえって吹き飛ばされそうになって、傘を差すのを諦めた。

 またもや男だけがポツンとひとり取り残される。

 女がテレビのダイヤルでチャンネルを回すと、気象情報をやっている番組を見つけた。大雨洪水警報が出ていた。

「降ってるな」

「ん」

 短いながらも言葉を交わす。また男の向かいに女が座って煙草に火を点けたが、男はそれにも少し慣れてきていた。

 男は雨が弱くなるのを待っていたが、一向にその気配はない。
 閉店時間も近づいてくる。

 壁を灰色がかったナメクジが一匹、ゆったりと這っていた。
 女はそれを見つけると、いつも通りに古い箒の柄で、窓からそっと外へ放り落とす。
 窓を閉めると、女は煙を吐きながら漏らした。

「今日、泊まってく?」

「え」

 男はその一言に身を硬め、言葉を失う。
 沈黙は長かった。
 
「......いや、いい」

 ようやく絞り出した声。

「そう」

 いつも通りの、短すぎる返答。

「アパート、どうするの」

「......どうしようもない。金がない」

「そう。誰かから借りれないの」

「借りるあてがない。周りで金払いの良いやつを俺は知らない」

「ふうん」

 そのあとはただ沈黙が続いた。
 このままではアパートは取り壊され、男は仕事もないまま立派な「浮浪者」になってしまう。だが今の男に何ができるというのか。彼は弱々しく自身の無力さを噛みしめていた。

 閉店時間まで粘ったものの、風雨が収まる気配はない。

「じゃあ」

 女はその言葉には応えず、ただ灰皿を見つめている。腹を括った男は、轟音の鳴り響く雨中へと身を投じた。

 まるで滝行でもしているかのようだった。

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