第7話 再会
昨日の夜、不動産屋が来た。退去を促すためだ。男は適当にあしらって帰ってもらおうとしたが、相手は簡単には引き下がらなかった。あと一週間しかないんですよ、何とかしてください。と大きな早口でまくし立てて、ドアを勢いよく閉めて立ち去っていった。
男には特に入り用なものは無い。ごく少しの什器と衣料さえあれば、そのまま出て行って、あとは解体業者にアパートもろとも処分してもらえばいいだけの話だと男は思った。
工具箱は、もう不要かも知れない。
翌日。朝から土砂降りだった。
この天気を見て、男は一旦は躊躇したが、深いため息をつくと上着を着た。
男は駅前から少し歩いた街道沿いにある建物に向かった。その手前には水たまりの出来た狭い校庭のような庭に並んで、三階建ての小さな建物が建っていた。入り口には「児童相談所」とある。
男の用はそこにあるのではない。更に奥まったところに、児童相談所に負けないくらい古くて小ぢんまりした建物があった。入り口には「職業安定所」と記されている。かつては職探しに来た人々で賑わっていたであろうその建物も、今は雨に打たれてすすけ、救いを求める男たちの吐息を吸い込んで重く沈んでいた。背を丸めて両手をポケットに入れたまま、男はそこに入っていった。番号札を取る。
男は職安を出た。男が望むような金型工の募集は皆無で、それ以外の職種でも、男に出来そうなものは無かった。
腹が鳴る。
男は駅前まで戻って喫茶店にでも行こうかと思案していたが、その思案途中、はたと気づいたら、あの民生食堂の前に立っていた。入り口脇の植え込みのあじさいが、大粒の雨に揺れていた。壁にはナメクジが這っていた。
男は傘を差したまま足元を濡らし、長いこと入り口の前で立ち尽くしていた。出入りする客が不思議そうに、あるいは恐々と男を横目で見てはすぐに目を逸らしてすれ違っていく。
ようやく男はゆっくりと足を前に進めて踏み込んだ。
大雨のせいで客足が鈍い。狭い食堂は閑散としていた。
男はショーウインドウの前に立つ。
「どうも」
女は初めての客を見るような目で男を見ていた。
「何にする」
「その...... 茄子とイワシときんぴら、で」
女は何も言わず慣れた手つきで、お盆に惣菜とご飯一杯の茶碗と味噌汁の椀を乗せて、男につき出す。
男も無言で受け取り、食堂の一番隅で黙って飯を食う。女は厨房に引っ込んでいて姿が見えない。
厨房の床に目をやると、自分がいた時より少し汚れていた。
年老いた最後の客がいなくなると、客は男一人になった。音量を絞ったテレビは殺人事件について流していた。
男はぼんやりしながらその番組を流し見ていると、ガタっと音がして男はぎょっとする。
男の向かいに女が座った。チェリーにマッチで火を点けてふうっと煙を吐き出す。
男は何も言い出せなかった。女も何も言わなかった。
ただ大して面白くもないテレビをぼんやりと見ながら男は飯を食い、女は紫煙を燻らせた。
男はイワシの梅煮を箸で崩しながら、紫煙から逃げるように言葉を漏らした。
「......職安に行った」
女は、まるで昨日の天気を報告されたかのような無関心さで応じた。
「へえ」
「仕事はなかった」
「そう」
男はイワシを箸でつまみながらつぶやいた。
「昨日――」
「うん」
「不動産屋が来た」
「そう」
「早く出てけって」
「ああ」
女は何か得心がいったような声になった。
「いつまで?」
「......あと六日」
「ふうん」
それ以上何かを訊くでもなく、女はチェリーの火をアルミの灰皿に押し付けて消し、その灰皿を持ってそのまま厨房へと戻っていった。
男は食べ終わってもしばらく何も考えずにテレビを流し見して、ゆっくり立ち上がる。
お勘定をして出ていくが、女からは、相変わらずまたどうぞの一言もない。
男はそのまま帰宅し、ラジオのダイアルを回す。ナイター中継をやっていた。それをダラダラと聞きながしながら、布団の上で横になっていた。
誰かが逆転ホームランを打ったようだ。
さらにそれがカープの逆転サヨナラタイムリーで覆った時、男は灯りも消さずに眠りの淵に落ちていた。
▼次回 第8話 雨の夜