第6話 無為
男は歩みを進め、活動を開始したばかりでざわつく駅前を通り過ぎ、自宅のアパートへたどり着く。
ドアを開けると、かび臭い湿気と刺すような静けさが男を迎えてくれる。
窓は閉め切ったまま。ささくれた畳は黒ずんでいる。
腹が鳴った。
冷蔵庫は空。戸棚の奥に、製造年月日から十ヶ月は経っている袋めんが一つ残っているだけだった。
それを茹でる。具はない。
AMラジオを点けると、勤め人向けの朝番組が流れてきた。
働かねば。
ひとりで、味噌ラーメンを食べる。
温かかった。
でも、それはあの民生食堂の簡素な食事の「温かさ」とは何かが違う。
男はアパートを出ると、職探しに行く。町工場回りをしても、どこでもけんもほろろに追い返された。疲労感だけが男の両肩にずっしりと圧し掛かる。
仕事をせずとも腹は減る。
どうする。
真っ先に民生食堂あじさいの暖簾を思い出した。女の顔も思い浮かぶ。今頃はいつもの無表情で、昼の客が来るのを待っている頃だろう。あそこへはすぐにでも行ける場所だ。
いや。踵を返した男は、通りすがりに見つけた中華で、ラーメンと半炒飯のセットを頼んだ。
店内では客や店員の怒号のような会話と、テレビの音声が騒々しさを競っている。あの民生食堂の張り詰めた静けさはどこにもなかった。
乱暴に隣に座った職工風の男が「チェリー」を取り出し吹かして新聞を広げる。あの女の煙草だった。ここの騒々しさと「チェリー」の赤が繋がらない。男にとってあのタバコはあじさいの休憩時間の静けさの中に女が手に取るはずのものだった。
透き通った醤油スープに具の少ないストレート細麺を急いですする。合間に炒飯を頬張ってろくに噛まずにスープで飲み下した。味が入ってこない。
男は慌てて食べ尽くすと、スープまで飲み干して立ち上がり早々に会計をする。
飯を食ってからの男は工場回りを再開しようとして、やめる。もう既にあらかたの工場は回っていた。
工場の壁に囲まれ、じめじめした狭い公園の、苔むしたベンチに一人座る。そのまま二時間身じろぎもしなかった。
目の前で子供たちがはしゃぎまわっている。男は子供たちや宙を彷徨って虚しく弾けるシャボン玉を目で追っていた。男が子供の頃やっていた遊びはもう見当たらなかった。
ため息ひとつ吐いて男は立ち上がり、尻を叩いて帰宅する。
かび臭い居室から洗濯物を取り出して銭湯に向かった。
コインランドリーへ無造作に洗濯物を突っ込み、風呂へ入る。
長々と浸かったので少しのぼせた。
帰宅し水を飲む。洗濯物は畳まずに放り投げる。布団を敷いてその上に腰を下ろした。
気が付けば晩飯を食っていない。男はうんざりした顔で立ち上がり、駅まで彷徨う。改札横にある閉店寸前のキヨスクでカレーパンと焼きそばパンを買って帰る。
アパートの自室で布団の上に座ってそれを食べるが、今度のパンは塩気があるもののやはり歯ごたえはない。また民生食堂の総菜が頭をよぎる。
歯を磨いて明かりを消し布団に潜り込んだ。
今日一日を振り返る。
何もない無為な一日。
また雨音がトタンの屋根を打ち始める。
男はその音も耳に入らないまま眠りに落ちていった。
▼次回 第7話 再会