第10話 条件
男は目を覚ます。
一瞬ここがどこだか判らなかった。だがすぐに記憶が戻り、布団を畳んで着替える。
厨房へ降りていくと、女が野菜を切っていた。その包丁のリズムも男は覚えていた。
「おはよ」
女は背を向けたまま挨拶をした。
「......おはよう」
男もそれに答えた。
男は朝飯を食うとまた職安へ行く。ここにいても、何もすることはないことはよく判っていた。
何の成果もないまま男は帰ってきた。女が用意した、ここの総菜よりも質素な飯をふたりで食う。
夕方以降の営業時には昨日と同じように男は二階へ上がる。厚着していた服を全部着て、いつでもここを出られるよう準備した。
あじさいの終業後、男は一階まで降りてきて、女に挨拶をしようとする。
「今まで助か――」
女は男の前に立って両方の腰に手を当てて言い放った。いつもと同じ感情の抑揚を感じさせない平板な低い声だ。
「ここはあたしの職場」
「あ、ああ......」
男は自分がまた何かしでかしてしまったのかと思った。
「だからあたしの仕事のことで、余計なことはしないで」
「わ、わかった」
「して欲しいことがあったら、あたしから言う」
「......了解した」
「できないんならできないって言って。できるんなら全力でやって」
「ああ」
なにやら話の風向きが変わってきた気がして、男は真面目な顔で女の眼を見る。何を考えているのか判らない感情のない眼だ。
「それと、家賃を取る。安くはしとくけど」
「えっ」
やはり話の流れが大きく変わり、男は眼を剥いた。
「仕事が見つからなかったらうちで働いてもらう。もしそんなことになったら、その時また新しく色々決め直す」
「うん、わかった」
「風呂はあたしが先に入る。あんたは後に入って、そのあと掃除して」
「そうする」
「......それくらいかな?」
女は斜め上を見て目をさまよわせる。
「とにかく仕事を見つけること。うちへの就職は最終手段。給料安いからね」
「あ、ああ」
「仕事見つけてそれなりの収入になったら出てってもらう。いいね」
「そうする」
「じゃ、よろしく」
「こ、こちらこそ」
男は深々と頭を下げた。
「本当に助かる。恩に着る」
「そんな大したことじゃない」
「いや、大したことだ。ありがとう」
「そう」
ほんの微かにだけれど、女は初めて笑ったように見えた。
「もう寝よう。おやすみ」
「ああ、お、おやすみ」
二階へ上がってそれぞれの部屋に入ると、男は深呼吸をした。
布団に入るとなかなか眠れなかった。
早く職に就いて自立せねば。そう思った。
「ちょっといい?」
いきなり襖の外から女の声がした。男は驚いて飛び起き襖を開ける。
「大事なこと忘れてた」
「大事なこと?」
男は少し嫌な予感がした。
「あんた、名前なんて言うんだっけ」
女は無表情のまま尋ねた。
▼最終話 ふたりの一人暮らし 他