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最終話 ふたりのひとり暮らし

 民生食堂あじさいの朝は早い。

 女は早くから仕込みに余念がない。厨房には女の包丁が、規則正しくまな板を打つ音が響く。女に余裕がない時は男も手伝わされる。
 質素な朝食を済ませると、男は仕事に出かける。縁あって近くの印刷所で見習いとして就職をすることができた。今は活字と格闘している。

 昼になると女は忙しくなる。
 次から次へとやってくる客をさばかねばならない。いずれも同居する男のように生活に困窮した人々だ。栄養も考えながら、料理を作り置きして客を待つ。

 その頃には、男が帰ってくる。そこでちゃんと代金を払って昼飯を摂る。

 夕方以降、書き入れ時には男も手伝って食堂を切り盛りする。

 夜には閉店。

 女が先に風呂に入り、男は次に風呂へ入ったあと、風呂掃除をするのが約束となっている。

 手伝ううちに男も常連の顔を少しずつ覚えていった。客はこの新しいアルバイトに好奇の眼を向けているが、今のところその視線はかわせている、と思う。

 安くて栄養のある総菜を作るのは難しい。女は新しいメニュー作りに余念がない。男が時々アドバイスをすることがあるが、それは大抵的外れだったり、栄養が極端に偏ったりしている。

 週に一、二回、女の希望に応じてふたりは近所できたばかりのスーパーに買い出しに行く。運転手と荷物持ちは男。このために、というわけではないが、男は辛うじて動くといった体の中古車を格安で購入していた。すぐエンストするし、駐車場代もばかにならない。しかし、大量の食材を運びたい女にとっては、自転車よりはるかに量が運べ、何より楽で助かる。だが維持費は所有者である男持ち。駐車場代だけ折半している。それが二人の取り決めだった。

 つまずきやすい段差にはいつの間にか板が設置されたし、厨房の棚もその位置が少しだけ変わっている。いずれも女の安全性や効率を重視した結果だ。

 ふたりは話をするうちに女の方が二つ年上だと言うことが判ったので、男の方が女をさん付けで呼んでいる。一方で女の方は男を呼び捨てにしている。
 その年下の男は、見習いなので給料はなかなか上がらず、今のところ新しいアパートに引っ越すほどの余裕はない。

 同じ屋根の下。同じ釜の飯を食いながらも、そこには厳然とした境界線がある。
 だが最近、その線がわずかに動いた気がした。どちらかが引いたわけでも、押し込んだわけでもない。互いにとって最も呼吸のしやすい場所を求めた結果、自然と引き直された線だ。

 一度、男は女に尋ねた事がある。なぜ自分を泊めてくれたのか、と。女はしばしの沈黙ののち「さあ?」と答えた。「何でかな。あたしにもよく分からないね。昔っから気まぐれだからさ」と無表情に支度をしながら、男の顔も見ずに言う。

 たとえ女の気まぐれだとしても、この先もうしばらくこの同居は続きそうだ。
 そのあとのことは、まだふたりにも判らない。

  ――了――
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第10話 条件
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あとがき
民生食堂 あじさい――昭和、雨の工場町で男と女はすれ違う作者:永倉圭夏
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 民生食堂あじさいの朝は早い。

 女は早くから仕込みに余念がない。厨房には女の包丁が、規則正しくまな板を打つ音が響く。女に余裕がない時は男も手伝わされる。
 質素な朝食を済ませると、男は仕事に出かける。縁あって近くの印刷所で見習いとして就職をすることができた。今は活字と格闘している。

 昼になると女は忙しくなる。
 次から次へとやってくる客をさばかねばならない。いずれも同居する男のように生活に困窮した人々だ。栄養も考えながら、料理を作り置きして客を待つ。

 その頃には、男が帰ってくる。そこでちゃんと代金を払って昼飯を摂る。

 夕方以降、書き入れ時には男も手伝って食堂を切り盛りする。

 夜には閉店。

 女が先に風呂に入り、男は次に風呂へ入ったあと、風呂掃除をするのが約束となっている。

 手伝ううちに男も常連の顔を少しずつ覚えていった。客はこの新しいアルバイトに好奇の眼を向けているが、今のところその視線はかわせている、と思う。

 安くて栄養のある総菜を作るのは難しい。女は新しいメニュー作りに余念がない。男が時々アドバイスをすることがあるが、それは大抵的外れだったり、栄養が極端に偏ったりしている。

 週に一、二回、女の希望に応じてふたりは近所できたばかりのスーパーに買い出しに行く。運転手と荷物持ちは男。このために、というわけではないが、男は辛うじて動くといった体の中古車を格安で購入していた。すぐエンストするし、駐車場代もばかにならない。しかし、大量の食材を運びたい女にとっては、自転車よりはるかに量が運べ、何より楽で助かる。だが維持費は所有者である男持ち。駐車場代だけ折半している。それが二人の取り決めだった。

 つまずきやすい段差にはいつの間にか板が設置されたし、厨房の棚もその位置が少しだけ変わっている。いずれも女の安全性や効率を重視した結果だ。

 ふたりは話をするうちに女の方が二つ年上だと言うことが判ったので、男の方が女をさん付けで呼んでいる。一方で女の方は男を呼び捨てにしている。
 その年下の男は、見習いなので給料はなかなか上がらず、今のところ新しいアパートに引っ越すほどの余裕はない。

 同じ屋根の下。同じ釜の飯を食いながらも、そこには厳然とした境界線がある。
 だが最近、その線がわずかに動いた気がした。どちらかが引いたわけでも、押し込んだわけでもない。互いにとって最も呼吸のしやすい場所を求めた結果、自然と引き直された線だ。

 一度、男は女に尋ねた事がある。なぜ自分を泊めてくれたのか、と。女はしばしの沈黙ののち「さあ?」と答えた。「何でかな。あたしにもよく分からないね。昔っから気まぐれだからさ」と無表情に支度をしながら、男の顔も見ずに言う。

 たとえ女の気まぐれだとしても、この先もうしばらくこの同居は続きそうだ。
 そのあとのことは、まだふたりにも判らない。

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