3.風評
次の予約客もまた常連の一人、運命の女神でした。丈の長い黒絹のドレスの胸元で、紅い楕円の輝石が光っています。生きて脈打つ血のように、鮮やかで美しい輝石の持ち主は、細く白い指にしなやかに流れる黒髪を絡ませています。運命の女神は三人一組です。三人で仕事をしているのですが、ハサミが必要なのは、一人なのです。
「ハトリ氏は、まだ工房かしら?」
赤毛の女の子は大急ぎで、しかし丁寧にお茶の準備を始めました。この女神は、お茶にはちょっとうるさいので気を遣うのです。
「おう、今は俺の鎌を研いでもらってるところだ」
「あら、ちゃんと仕事してるのね。ハトリ氏のことだから拗ねて仕事放棄してるかと思ったけれど。刑務所帰りでお疲れなんじゃなくて?」
「おっと、そのムショ帰りってのは禁句だ」
「そうなの? 刑務所住まいの感想を聞いてみたかったのだけれど。残念ね」
「そんなこと言ってみろ。運命の女神たちは何の恨みがあって私の糸をとんでもない具合に絡ませたんだと文句をたれるぞ?
「......その通りだね」
ハトリ氏が憮然とした顔をして工房から出てきました。その手には、美しい三日月型の鎌を持っていました。
「おっ、ありがたい。極上の仕上がりだな!」
嬉々として、死神は大事な鎌を受け取りました。持ってきた時は鈍っていた刃先が、今では光を反射して銀色にきらめいています。
ハトリ氏は不機嫌でした。仕事なんてする気分じゃ、全然ありませんでした。けれど、刃先のこぼれたハサミや刃物を見ると、つい精魂込めて砥いでしまう性分なのです。
「培われてきた職人魂ってヤツですね!」
と言って、赤毛の弟子は笑います。
「あまり吹聴しないでほしいんだが。ムショ帰りだなんて、人聞きが悪いったらない」
「あら。もう遅いと思うけれど」
運命の女神は指先を口に当て、ちょっと小首をかしげて言いました。
「ハトリ氏の事件、尾ひれ付きで広まってるわよ?」
「私の事件じゃない」
「でも、みんなそう捉えているわよ? 今以上に仕事が増えそうなくらいにね」
「勘弁してくれ。いったい私が何をしたっていうんだ」
ハトリ氏は頭を抱えます。本当に頭が痛くなってきたようでした。
「えー......っと? うっかり死神のだれかが落としたらしいハサミを、聞きとがめもせず懇切丁寧に砥いであげた、ってことくらいかな?」
赤毛の女の子が言うと、ハトリ氏は厳しい面持ちになって「自称・弟子」を睨めつけます。
「私を師匠だと思っているのなら、敬いなさい、師匠を」
「敬ってますよ、それはもう心から!」
「態度で示しなさい。まったく」
「えー、これ以上ないってくらい態度で示してると思うんですけど。ね、そう思うでしょ、死神さん?」
赤毛の女の子に同意を求められ、もちろん死神は頷きました。傍にいた運命の女神も笑っています。
「刃物の砥ぎはイマイチのようだけど、よくできた弟子じゃないの。ハサミの使い手としては、相当なものだし。お茶の淹れ方だって随分上達したわ。傍においておく方が、身のためだと思うわ。今後のためにもね」
運命の女神には、ハトリ氏の「未来」が、もう見えていたのかもしれません。
でもそれを口にしたりはしませんでした。
ハトリ氏の期限をさらに損ねて、大切な裁ちばさみを折られてしまったら、大変です。
ただ一言だけ、言い添えました。
「しまいこんだままのあのハサミ、砥いでおく必要はあるでしょうね」
すぐ使えるようにね、と女神の言に、ハトリ氏は何も答えませんでしたが、ひとつ深いため息を落としました。
今日の予約は、死神と運命の女神だけでしたから、研ぎの仕事自体は早く済みました。けれど、気が付くともう西の空が赤く染まっていました。
丸々とした赤い太陽は、まるで不吉の象徴だ。
ハトリ氏は西の空を眺めて大きくため息をつきました。今日何度目のため息なのか、もうわからないくらいです。
赤毛の弟子が入れてくれたハーブティーはすっきりとした甘みがあって美味しかったのですが、その甘さがかえってため息を吐き出させるようでした。
「ため息をつくと幸福が逃げるっていいますよ、師匠」
と、赤毛の女の子は言います。からかうような口調でしたが、師匠を見るまなざしはほんの少し心配そうでもあります。
「そんなのは迷信だ」と返したものの、ハトリ氏の声は女の子には届かなかったようです。
「そういえば師匠! 運命の女神さんが言っていたハサミって、あのハサミですか?」
「............」
ハトリ氏は黙してお茶をすすりました。冷めて、甘みが強くなったように感じました。
「うーん、あのハサミが必要になるって、どういうことだろ」
赤毛の女の子は腕を組んで考え込みます。珍しく真剣な顔でした。
「さあね」
「でも、運命の女神さんの言葉ですよ? 何か意味深じゃないですか」
「さあ、どうだか。あれは、運命を紡ぐ女神ではなく、断ち切るのが専門の女神だからね」
関心のないふりをして、ハトリ氏は気のない返答をしました。......本当は気にかかっていたのですが、それを弟子の女の子に言うのはためらわれたのです。
「師匠!」
赤毛の女の子は、ハトリ氏の腕を掴んで言いました。
「わたしは師匠の味方ですからねっ!」
「......は?」
「見捨てたりしませんから、絶対に!」
「何を突然言い出すんだい、おまえは?」
「だから、それだけは憶えといてくださいってことです!」
女の子は真剣そのものの顔をしています。茶化している風でもなく、いつになく真面目な弟子の顔つきや口調に、ハトリ氏はたじろぎました。
......オンナノコっていうのは、どうしてこう勘が鋭く、思い込みが激しいのかな。
やれやれと肩の力を抜き、「わかったわかった」と弟子の女の子を適当にあしらっておきました。
苦笑が、ハトリ氏の口元ににじんでいました。
ハトリ氏は、再び窓の外に目を向けました。
太陽はとうに沈んで、藍色の空にはチカチカと光る青白い星達が瞬いています。雨の匂いはすっかり薄らいでいます。
どうやらあのハサミを研いで、準備しておく必要がありそうだ。
面倒だが、しかたない。
そしてまた一つ、ハトリ氏は深いため息をついたのでした。