第5部 観測者編 - 第4話「境界」
城から離れた場所に、低い丘があった。
咲は丘に向かって足を進め続ける。
空気の冷たさは変わらない。
なのに、歩みを進めるたび、あの不自然で生暖かい風は、咲の肌を撫でに来た。
まるで、生き物の吐息のように肌へと纏わりつき、再び視界が霞んだ。
「......」
フレーダーは、それを見ている。
何も言わない。
宣言したことは守り続けている。
しかし、その瞳の揺らぎ方は、わずかに変化していた。
咲が進む。
咲が目を擦る。
咲が小さく息を吐く。
そのひとつひとつを見る目に、わずかな熱が灯る。
観測。
それが、彼の役目。
手は、出さない。
―――“出せない”。
破れば、彼にとって禁忌を侵したことになる。
「......あの」
ふいに、目の前を歩いていた咲が振り向く。
「ずっと、眉間に皺が居座ってますよ」
唐突に投げられた、問いではない会話に、フレーダーの眉が動く。
「......居座らせた覚えはない」
ただ一言返す。
「......ふふっ」
咲は思わず笑った。
「そんな返しもするんだ......」
自然と、言葉の固さも解れた。
くだらない会話であることは、自分でも分かっていた。
なのに、この男は真面目に返した。
それが少しおかしい。
ほんの少し、気が紛れる。
「......行くのだろう」
フレーダーは丘へと視線だけを向けた。
「......うん」
咲は再び丘の方へと歩き出した。
丘には何もなかった。
枯れた木々はギィギィと不気味な音を鳴らし、不穏に揺れる。
草は枯れ、土は固い。
それでも、ここだけは視界が開けている。
咲が足を止めると、彼も止まる。
それは変わっていない。
しかし。
ふたりの距離に、変化があった。
極端に近づいたわけではない。
しかし、意識するには充分なほどであった。
フレーダーは咲の立つ位置よりも少し前に出たまま、振り返らずに告げた。
「......この世界に来る人間は、ほとんどいない」
それが事実なのか、独り言なのかは分からない。
咲が隣に並ぶと、彼はわずかに視線を落とす。
城を見下ろす位置。
この世界全体を見渡せる場所だった。
「この世界はもう、“物語”ではない」
淡々とした声で、事実だけを伝える。
唯一の希望であった王子は、姫のもとに辿り着く前に行く手を阻まれ、その生涯の幕を閉じた。
呪いが解かれなかった姫は城の使用人共々朽ち果て、魔女は忽然と姿を消した。
「朽ちたあとに残ったものは、ただの残骸だ」
風が吹き、咲の影と彼の影が、地面の上で重なる。
彼は、それを見ない。
「......それでも」
一拍、間が開く。
「この世界に呼び込まれた者は、来る」
咲が視線を向けると、彼はようやくこちらを見る。
「お前は、ここに来る必要はなかった」
責める調子ではない。
しかしその声色は、どこか苦しそうだった。
「だが......お前は来てしまった」
事実を並べるだけの言葉。
先程までの彼なら、もっと淡々と話していた。
なのに。
今はその表情に、明確な苦しさが滲んでいる。
苦悩。
葛藤。
自制。
当然、咲は何も知らない。
何に頭を悩ませているのか。
何に瞳を揺らしているのか。
―――なんで、そんな顔をするんだろう。
咲の胸に、もやもやとした感情の渦が巻き付いていく。
初めて会った。
初めて話した。
関わり自体、かなり薄い。
けれど。
「......そんな顔しないで」
言わずにいられなかった。
一瞬。
ほんの一瞬だけ、フレーダーの目が見開く。
翡翠色の瞳が、一度だけ大きく揺らいだ。
咲は、思わず一歩踏み出す。
フレーダーは動かない。
しかし。
視線だけは、咲をしっかりと捉えている。
ふたりの距離が、先程よりも更に縮まった。
ほんのわずか。
だが、それだけで空気が変わった。
「......今の俺に、近づくな」
制止ではあるが、拒絶ではない。
理由を言わないところに、彼の限界があった。
「......わかった」
咲が立ち止まると、彼は小さく息を吐く。
「......すまない」
何に対してかは、言わない。
ただ、目を伏せる。
「ここは、長くいる場所じゃない」
目を伏せたまま、フレーダーは告げる。
その言葉だけが、やけにはっきりしていた。
“長くいない方がいい”というより、“長くいてはいけない”という響きに近い。
風が吹き抜け、丘の上の影が揺れる。
あれからふたりの影は、一度も重なっていない。
揺れて。
近づいて。
離れて。
また揺れて。
まるで、今のふたりを表すかのようだった。
咲の存在を、フレーダーは確かに意識している。
だが、それ以上踏み込めば、何かが壊れることも分かっている。
しかし、彼は立ち去ろうとしない。
この距離は、まだほどけていない。
―――ここから先は、同じ速さでは進めなくなる。
そう予感できるほど。
静かな緊張が、ふたりの間に残っていた―――。
【第5部 観測者編 - 第4話「境界」- 完 -】
→第5部 観測者編 - 第5話「縛り」へ