第5部 観測者編 - 第3話「不可解」
しばらく城内を歩いた。
質の良い陶器の花瓶には、枯れた花。
綺麗なブロンドの髪をした、美しい女性が描かれた肖像画。
廊下の各所に、おとぎ話の本で見るような典型的な城の装飾が施されている。
茨は城の中にまで蔓を伸ばしていたが、歩行を阻害するほどではない。
“前の世界と同じ者はいない”と彼から告げられてはいたが、人間界とは勝手が違う。
何があるか、まだ分からない。
油断もできない。
そんな中で、各居室を見て回ることは危険であると判断し、単純な道筋だけを選び、足を進めていく。
しばらく歩くと、足音の響き方が変わる。
月明かりが入り込む、外に通じる道が見えた。
そのまま回廊を通り、城の外へ出る。
空気は冷たく、遠くまで何もない。
なのに、時折吹く風には妙な生暖かさがあり、咲の体をするりと通り過ぎていく。
その風に触れるたび、意識がわずかに削がれていくような、奇妙な暖風だった。
視界に広がるのは、石畳と荒れた森。
相変わらず生き物の気配はない。
「......」
会話はない。
今は、必要なタイミングではないらしい。
咲が歩き出すと、フレーダーも歩く。
硬い表情と胸の前で組まれた腕は、出会った時からほとんど崩れていない。
歩く速さは、最初から同じだった。
合わせた気配はない。
ただ当然のように、同じ速度で進んでいく。
咲は、時折振り返る。
恐怖からではない。
フレーダーが常に顔をしかめていることが、気になった。
自分に向けられた嫌悪ではないことは、彼の行動からなんとなく分かる。
それでも気になる理由は、彼の表情がどこか、“納得できていないもの”を抱えたままの表情だったからだ。
再び風が吹き、咲の髪が揺れる。
「っ......」
一瞬、視界が霞んだ。
やはりこの風は、妙に意識を持っていかれる。
咲が目を擦る様子を見ていたフレーダーは、何も言わずに位置を変えた。
城壁と、咲の間。
風を受ける側に、自分が立った。
一定に保たれていた距離が、わずかに変わる。
触れられてはいない。
何もされてはいない。
彼は宣言したことを、確かに守っている。
しかし、初めて変えられた距離に、咲の胸が跳ねた。
「......ここは、風がよく通る」
咲へと視線だけを向け、低い声で言った。
「......今、守ってくれたんですか」
そんなことをする必要など、彼の役目にはないはずだ。
「......」
返事はない。
肯定すれば、彼が出会った時に言った言葉が嘘になる。
逆に、否定すれば今の行動に説明がつかない。
思わず咲は、唇をきゅっと結んだ。
“俺は、お前に何もしない”。
確かにそう言っていた。
なのに。
ただの風から、当たり前のように守ってくれた。
その事実に意識が引かれ、足が縺れた。
「っ......と......」
石に足を取られそうになった瞬間、横から彼の手が伸びた。
早かった。
しかし、触れないまま、ぴたりと止まる。
「だ、大丈夫です。ちょっと縺れただけなので」
咲が体勢を立て直すと、彼の手は静かに下ろされ、再び胸の前で組み直された。
「......気をつけろ」
それ以上は言わない。
彼の眉間に、更に深い皺が入ったように見えた。
―――なんで、そんな顔するんだろう。
その疑問は、再び吹いた風に削られていった。
咲が歩調を落とすと、彼も同じだけ遅くなる。
「......」
再び、何も話さない沈黙が続く。
なのに、重くはない。
むしろ、不思議なほど落ち着いた。
一瞬。
咲の頭に何かが走り抜けた。
遠い記憶。
何かに、見守られていたような。
しかし、走り去った記憶は、霧のように散っていく。
―――気のせい、か。
振り返れば、一回り小さく見える城。
しかし、まだはるかに大きくそびえている。
咲が城を見上げて立ち止まると、しばらくして、フレーダーが口を開いた。
「......この世界は」
言いかけて、すぐに止める。
ごくわずかに視線が泳ぐ。
「......いや」
言葉を引っ込め、咲に視線を送る。
城から視線を移した咲の目と、フレーダーの瞳が合った。
その時。
翡翠色の瞳の奥に、別の色と熱が滲む。
時間にして、一瞬。
フレーダーはバツが悪そうに、視線を落とす。
この世界にもう人がいないことは、なんとなく察していた。
それでも今、咲は一人ではなかった。
同じ速さで歩く存在が、隣にいる。
それが、少しずつ“当たり前”になっていく。
彼と出会ってから、ふと思う。
―――懐かしい。
理由は分からない。
彼のことは何も知らない。
それでも、胸の奥に、説明のつかない温度が残る。
咲は、胸に手を添える。
その仕草を、フレーダーは黙って見ているのだった。
【第5部 観測者編 - 第3話「不可解」- 完 -】
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