第5部 観測者編 - 第5話「縛り」
見渡す限りに広がる森。
不用意に足を踏み入れれば、踏み入れたものをやすやすと帰すように見えなかった。
咲は丘を下り、城へと踵を返す。
先程少しだけ近くなったフレーダーとの距離は、出会った頃と同じ距離へと戻った。
彼が、一線を引き直したからだ。
歩みを進めていく中、何度もあの風が吹きつける。
「っ......」
目が霞む。
城の中へと戻れば、多少は凌ぐことができるかもしれない。
先程よりも足早に歩を進めていく。
回廊を通り、元来た道を戻ってきた。
丘も、そこから続く森の小道も、城の居室へと続く廊下も、歩けば進める。
廊下を歩いている最中、各部屋を巡ろうかとも思ったが、結局行かなかった。
―――行ってはいけない気がした。
降り立った場所、今まで通ってきた道から、この世界から出るヒントを探す。
けれど。
どれだけ歩いても、境界へ続く確かな感触はない。
やはり、この世界も自力では出られない。
咲は思わず歩みを止める。
―――いや。
その瞬間は、“歩みを進められなかった”のかもしれない。
この世界に来てからずっと感じていた違和感を、体が先に理解し始めていた。
それが今、はっきりと形を持ち始める。
一瞬。
咲の首が、かくんと傾く。
「......?」
瞼が重い。
あの生暖かい風を浴びた時と同じだった。
思考が、わずかに鈍る。
城の内部にあの風は吹いていない。
しかし、あの時よりも強烈な睡魔が咲を襲う。
まるで、今まで知らず知らずのうちに受けていた何かが、自分の意識を明確に奪おうとしているようだった。
眠りたいという衝動が、抗いようもなく滲んでくる。
足元がふらつく。
「......眠いか」
背後に、低い声。
その声は、咲に起きている問題を、“その時が来た”と理解しているような響きだった。
フレーダーは一定の距離を保ったまま、咲に視線を向けて立っている。
近づかない。
引き留めない。
意識が淀む中でも、その距離が意図的なものだと、今ははっきり分かる。
「......この世界の、呪いの残渣だ」
淡々とした声。
感情を交えない、事実の提示だった。
「......ここに留まれば」
それまで淡々としていた声のトーンが変わる。
「やがて、永遠の眠りにつく」
突き放すでも、慰めるでもない。
しかし、その言葉を皮切りに、明らかに何かしらの感情が滲み始めた。
「......俺は、“観測者”だ」
一拍、言葉を選ぶような間が入る。
「......人間の生死に、干渉できない」
咲は、彼の顔を見上げた。
視線は少し伏せられている。
迷いと。
戸惑いと。
それでも踏み込まないと決めた者の目。
伏せられていた目が、ゆっくりと上がる。
一瞬、咲の顔へと視線が落ち、すぐに逸らされた。
それだけで、彼が何を抑えているのかが、はっきりと伝わった。
今度は咲の視線が伏せられる。
「......私」
胸の前で手を握る。
「もっと、生きたかったなぁ......」
眠気を纏う瞳。
その中に混じる、諦めの色。
様々な世界を越え、今度こそ終わりだと悟ったものだった。
フレーダーの瞳が揺れた。
―――もう、迷っている場合ではない。
「眠りは、この世界に留まり続ければの話だ」
咲は動かない。
永遠の眠りの気配がゆっくりと、それでも確実に迫っている。
「......だが」
彼は、わずかに息を吐く。
「......道を示す存在が、別にいる」
そう告げて、今度は咲を正面から見た。
フレーダーの言葉に、咲の瞳に光が戻る。
「......道を、示す存在......」
咲は自分の中に落とし込むように、ゆっくりと復唱する。
「お前は、知っているだろう」
その言葉が落ちた瞬間。
思考の底で、軽い音が弾いた。
「......あ......」
異世界に飛ばされ、最初の境界で何度も見上げた背中。
道を示すふりをして、選ばせていた存在。
歯を見せない、あの独特な笑い方。
咲は、“案内されていた感覚”を思い出した。
じわ...と、目の奥が熱くなる。
呪いによる眠気は咲を沈めようと、今この瞬間も瞼を下げ続けている。
しかし。
わずかにでも希望が見えた今、それに咽まれる訳にはいかなかった。
咲の頭の中では、もう一つの記憶が、鮮明に動き出している。
ここに来る前の、逃げきれなかったはずの世界の記憶。
裂け目の向こうから当然のように手を伸ばされ、引き戻された感覚。
「......フー、ル......」
咲の口から、ぽつりとこぼれた名前。
「......」
フレーダーは、それ以上何も言わない。
肝心なものへと触れれば、干渉になる。
―――だから、踏み込まない。
フレーダーは口を閉ざす。
咲が思い出した“案内人”の存在を、彼は沈黙の中で、黙って受け入れていた。
【第5部 観測者編 - 第5話「縛り」- 完 -】
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