第5部 観測者編 - 第6話「想い」
城を離れる準備は静かに進んでいた。
彼から与えられた道を示す存在のヒントを胸に、咲はまず、この世界に降り立った場所である城の前に向かった。
何をしていても、眠気は確かにある。
視界が霞む。
瞼が下がる。
だが。
それはもう、足を奪うほど強くはならなかった。
「......“戻って来られるなら”......」
咲は顔を上げる。
「“また会いに来てもいいかな”って、言ったもん」
行かなければならない。
進まなければならない。
フールのもとへ。
咲は、一度だけ目元をぐいっと拭った。
会いたい。
会って、お礼を伝えたい。
なんでもいいから、また話したい。
その確固たる意思が、咲を眠りの渦から引き上げていた。
「......」
歩く咲の背中を、フレーダーは一定の距離から見ている。
宣言は、守られている。
近づかない。
呼び止めない。
引き留めもしない。
淡々とした対応を、彼は自ら選んでいる。
―――しかし、それは。
無関心ではなく、むしろ、真逆の感情による自制だった。
フレーダーの表情に、影が差す。
―――本当なら。
自分の手で、彼女を救ってやりたい。
眠りに落ちる前に。
この世界に、絡め取られる前に。
彼ならそれができる。
だがそれを自分がしてしまえば、欲は今以上に、必ず膨らむと確信している。
“また”干渉してしまえば。
次は“天から落ちた存在”ですらいられなくなる。
彼は、それを知っている。
ズキッと、フレーダーの背中にある古傷が疼いた。
すでに痛みはない傷。
なのに。
関係のない場所に、痛みが居座り続けている。
フレーダーは、強い意思で歩き続ける咲から、目が離せなかった。
城の外に出る。
城壁の前で咲が立ち止まった瞬間、彼もまた足を止めた。
「......それは、鍵だ」
背中越しに、低い声が届く。
距離は詰めないまま、言葉だけを置いている。
「鍵......?」
咲はフレーダーへと振り返る。
翡翠色の瞳と視線が合った。
「......お前の、胸元にあるものだ」
見ずとも、触れずとも。
フレーダーは、“それ”の存在を知っていた。
咲は、胸ポケットに指を差し込む。
顔のないジョーカー。
あれからまったく反応を示さなくなり、咲の意識から外れかけていた。
「望むだけでいい」
淡々とした調子。
「望めば、扉は開く」
そして。
フレーダーの視線が、わずかに落ちる。
「......あの案内人のもとへ行くことも、な」
咲は胸ポケットから指を引き、カードを取り出した。
中央に、小さな道化が描かれたカード。
この奇妙な世界に降り立つ前に、舞い落ちてきたもの。
なぜか捨てられずにずっと持ち続け、時折不思議な反応を返してくれた、顔のないジョーカー。
彼は、それを見つめ続けている咲を、黙って見ていた。
だが、その奥にあるものは、静かに荒れている。
胸の奥が、かすかに疼く。
この世界から出る鍵を持ち、その先に別の存在を思っている。
それが事実なら、自分が踏み込む理由は、どこにもない。
咲は、カードにそっと指を重ねる。
「......」
一瞬。
それを見ていたフレーダーの胸の奥で、黒い感情が滲んだ。
―――燃やしてしまおうか。
そんな思考が、頭を駆け抜けた。
だが、即座に否定する。
そんなことをすれば、自分はもう堕ちた存在ですらない。
ただの、悪魔だ。
フレーダーは、静かに息を吐く。
「......俺は」
言葉を選びながら、続ける。
「お前を、見てきた」
咲の視線が、カードからフレーダーへと移る。
何も知らない。
何も分かっていない表情。
―――それでいい。
「お前がどこへ行こうと、勝手だ」
再び、咲に視線を戻す。
「...だが」
何かを言いかけて、口を塞ぐ。
彼なりの、自制だった。
しばらくの沈黙。
そして彼は、真っ直ぐに咲と向き合う。
今までにない雰囲気に、咲の肩がすくんだ。
「......ひとつ、聞きたい」
目を逸らさずに続ける。
「...お前は」
一拍。
「あの案内人を、選ぶのか」
わずかな沈黙。
「......どういう......」
咲は、その問いの意図が分からず、小さく首を傾げた。
「...」
彼は、彼は眉間に皺を寄せ、どこか苦い息を吐く。
「...“昔”から、お前はそうだった」
その時。
彼は初めて、今まで見たことのない表情でふっと笑った。
「......え......」
その顔を、遠い昔に見たことがある気がした。
“昔から”。
すべてを語りきらない彼の言葉が、咲の心の中に小さなささくれを作る。
彼は短く息を吐く。
「......質問を変える」
そう付け加え、一瞬の間。
フレーダーは、視線を落としたまま、ゆっくりと口を開いた。
「......お前は」
「あの案内人を、想っているのか」
【第5部 観測者編 - 第6話「想い」- 完 -】
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