第5部 観測者編 - 最終話「観測者」
しばらく、沈黙が続いていた。
彼から投げかけられた問いに、咲は口を開いた。
「......わからない」
咲は自分の胸へと手を当てる。
「だから、確かめたい」
この感情が、助けられてきたゆえの情なのか。
それとも、純粋な恋心なのか。
「......そうか」
フレーダーは目を逸らさない。
「なら、望め」
迷いは、もうなかった。
咲はカードを見つめる。
指がわずかに震え、カードもろとも手が小さく揺れている。
「......お願い」
顔のないジョーカーが、わずかに光る。
「私を、フールのいる不思議の国に連れて行って」
逃されるわけではなく。
送り出されるわけでもなく。
連れて行って欲しい。
自分の意思で、そう願った。
その瞬間。
カードが、大きく脈打った。
“聞き届けた”とでも伝えるように、カードから散った光が、城壁の一部に扉を形作っていく。
扉が現れると同時に、境界はすでに開きかけていた。
光の道が、ゆっくりと形を成していく。
―――今から、この世界を出る。
その事実だけが、静かに空気に満ちている。
自分の意思。
自分の足で。
誰かに送られるのではなく。
誰かに逃がされるのでもなく。
咲が、自分で望んだ道だった。
カードは、ゆっくりと光を落としていった。
フレーダーは、咲の少し後ろに立っている。
距離は保ち、一切触れない。
けれど、視線だけは外さない。
「......鍵は、閉じられているものを解く」
淡々とした口調。
けれど。
その言葉は、この世界に向けられたものではなかった。
「それは、境界を渡るためのものだ」
それは、すでに彼女へと伝えた事実だ。
「だが、それだけじゃない」
咲はフレーダーを見上げた。
いつもの腕を組んだままの姿勢。
視線は目の前の光の扉へと注がれているが、その瞳は境界の奥―――
―――不思議の国へと、向いているように見えた。
フレーダーは咲へと視線を移す。
翡翠色の瞳。
冷たいようでいて、なのに奥には温かな光が宿る、不思議と怖くない瞳。
そして彼は、咲へと告げた。
「ジョーカーは、二枚ある」
説明は、それだけ。
咲は持っているカードを見た。
裏面は抽象的な柄が四隅を飾り、表面には顔のないジョーカーがぽつりと描かれている。
自分が持っているのは、この一枚だ。
「一枚は、お前が持っているな」
フレーダーは再び扉の向こうへと視線を向ける。
「もう一枚は......」
それ以上は、語れない。
干渉しない。
これ以上踏み込めば、それは答えになってしまうから。
咲には、その沈黙の理由までは分からない。
けれど、これ以上聞けば、何か大切な境界を踏み越えてしまう気がした。
フレーダーは少し考えた後、再度口を開く。
「......揃えば」
言葉を選びながら、続ける。
「閉じられているものは、いずれ――」
言葉が、途中で切れる。
フレーダーが咲に差し出せる、干渉に至らないギリギリの境界だった。
咲も、扉の向こうへと視線を向ける。
フレーダーは一度だけ目を伏せ、再び視線を上げた。
「......行け」
短い言葉。
見送るためだけの声。
境界の光が、強まった。
世界が、切り替わろうとしている。
咲は扉の中へと、一歩踏み出した。
その背に、彼は何も触れない。
腕を組み、出会った時と同じように。
―――ただ。
最後に、一言だけ落とす。
「......お前なら、救える」
帰れる、ではない。
戻れる、でもない。
突如落とされた言葉は、咲に対する救済ではなく、咲が誰かを救うために向けられた言葉だった。
「......フレーダー」
咲から名を呼ばれ、フレーダーの腕を組んでいた指が、わずかに動いた。
「......ありがとう」
咲が最後に見た景色は。
わずかに目を細め、柔らかく口角を上げた彼の表情だった。
それは、今まで見たどの表情よりも穏やかで。
けれど、触れれば崩れてしまいそうなほど、静かだった。
―――そして。
光が、視界を覆った。
境界が閉じる、その瞬間。
誰にも届かない声で、フレーダーは呟いた。
「......成長したな」
それは。
確かに見届けてきた者の、静かな独白だった。
彼は、観測者。
最後までその立場を崩さず、確かに見届けた。
触れずに。
引き留めずに。
自分ではない誰かのもとへ向かう背中を。
ただ、見送ったのだった―――。
【第5部 観測者編 - 最終話「観測者」- 完 -】
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