幕間「落とされた羽」
初めは、ただの興味だった。
俺は、天より観測を任されていた。
その日も、数え切れない魂が誕生した日だった。
その中で俺は。
一際輝いている魂を見つけた。
―――いや。
輝きすぎていた。
生を受ける前から、よく狙われていた。
奴らにとってこの魂は、稀に見る馳走だ。
俺は、人間とそうでない者たちの秩序を、掟に触れない範囲で守った。
生を受けてなお、あの魂は狙われ続けていた。
外に出れば四肢を引かれ、奴らはこの幼い体から魂を引きずり出し、取り込もうと目論む。
加護も万能ではない。
だが、魂に致命的な損傷が起きるような問題は避けられていた。
お前は何も知らない顔で、俺に笑いかけてくる。
見るな。
来るな。
俺は、お前に干渉できない。
なのに、お前は何度も窓辺に立つ。
ただ見ているだけの俺に、その無垢な笑顔を向けてくる。
そんな日々が続いた。
「お兄ちゃん、お名前なぁに?」
お前はとうとう、俺の名を欲した。
教える必要はない。
だが、名を渡したところで、それ以上にもそれ以下にもならなければ、干渉にもならない。
俺は窓越しに名を告げた。
「ふれい......」
途中で止まる。
「......じゃあ、“ふれい”って呼ぶ!」
幼い舌が、俺の名前を短く変えた。
どう呼ばれようとも、俺とお前の立場は変わらない。
俺は観測者。
お前は観測対象の魂。
ただそれだけだ。
それだけの、はずだった。
―――あの夜が来るまでは。
星が瞬く夜だった。
幼い体が、自ら家を出て行くのを見つけた。
羽織を纏うわけでもなく。
靴を履くわけでもなく。
小さな足が、地面を直に踏んでいた。
“呼ばれて”いる。
すぐに分かった。
濁った目は瞬きも少なく、街灯の並ぶ道をひたすらに進んでいく。
やがて。
山に向かう階段の前に辿り着くと、少女は迷わず登っていった。
階段の先には、堕ちた神の祠。
普通の人間は、こんな夜中に立ち入るはずがない。
ましてや、子供など。
幼い手は、祠を封印する札に手を伸ばすと、迷わずその封を剥いだ。
一瞬にして、状況が変わった。
大蛇のような形を成した、邪悪な存在。
神だったものはもはや、無差別に魂を喰らう邪神と化していた。
―――気づけば、俺は。
人の生死へ手を伸ばすなという掟を破り、その魂を守っていた。
ようやく邪神を再封印すると、俺は夜空を裂くように飛んだ。
視界が霞む。
羽も傷ついていた。
だが、この少女を落とすわけにはいかなかった。
ようやく戻ってきた子供部屋。
ベッドに寝かせれば、幼い胸が穏やかに上下に動く。
魂は、傷ついていなかった。
安堵も束の間。
背中に、焼けるような痛みが走った。
それと同時に、嫌な軽さを覚える。
遅れて来た裁定。
少女を送り届けるまで黙っていた、天の慈悲。
次に、印を押されることは分かっていた。
印を押される前に。
この力がなくなる前に。
俺はこの魂に、最後の加護を与えた。
これで、奴らはこの魂を認識できない。
これで、いい。
そうして俺は、別の世界へ落とされた。
気がつけば、この歪んだ世界にいた。
羽はなかった。
もとより、光輪もない。
だが、頭が重かった。
頭蓋に知らない重さが沈んでいる。
祝福ではない。
光でもない。
罪人に打ち込まれた楔のように、そこには角が生えていた。
それでも。
戻る道は、まだ潰えていなかった。
見届け続ければ、いつか赦される。
そう告げられていた。
―――だが。
俺はすでに、戻る選択に疑問を感じていた。
正しさとは、なんなのか。
目の前に救える対象がありながら、それを“掟”として見過ごすことは、天の使いとして正しいことなのだろうか。
天に戻ることだけを、願い続けていたわけではない。
しかし、自ら最下層に堕ちる選択をする必要もない。
結果として俺は、引き込まれた人間の観測を果たし続けた。
そして、お前は現れた。
お前があの鍵を持ち、境界の穴へ落ちている時から、俺は見ていた。
―――なぜ。
来るな。
だが、あの時の俺は今の姿ではない。
俺の羽は、もうない。
だから、“羽を持つ別の存在”へと、姿を変える必要があった。
お前にも、人間の言葉としては聞こえていなかっただろう。
俺は、渡り歩くお前を見ていた。
案内人に依存することを選ばず。
甘い毒に惑わされることもなく。
魔女に見つかる前に送り出されたお前を。
そして、あの逃げ切れるはずのなかった世界。
境界の異常でありながら、俺は役目を捨てきれず、お前を見ていることしかできなかった。
だが、お前はあの案内人に救われ、この茨の世界に来た。
お前の世界へ戻れと言いたかった。
全ての答えを渡し、一刻も早く逃がしたかった。
―――だが。
成長したお前を見た瞬間。
言葉は、喉の奥で潰れた。
そして、お前が「生きたい」と言った時。
ただ見ているだけの自分に、心底嫌気が差した。
俺は、お前に対して初めて会った者のように振る舞った。
真実を告げたところで、きっとお前は覚えてはいなかっただろう。
だが。
そうでもしなければ、お前との距離を保てる自信がなかった。
お前が呪いの影響を受けるたび、俺の意思は揺らいだ。
だが、干渉すれば、俺はお前を求めずにはいられなくなる。
お前をこの世界の眠りから守るためには。
俺が、今の俺を捨てなければならなかった。
だから俺は、お前に道を示した。
俺ではない者のもとへ向かう道を。
触れなかった。
引き留めなかった。
それが、お前を守る最後の方法だった。
そして。
俺がまだ戻れる場所を失わないための、最後の境界だった。
それでも。
またお前に会えて、よかった。
【幕間「落とされた羽」- 完 -】
→最終章 真・案内人編 - 第1話「その先へ」へ