最終章 真・案内人編 - 第1話「その先へ」
咲は、しばらく境界が閉じたあとの場所を見ていた。
あの人は、自分を知っているようだった。
胸の奥にできたささくれが、思考を動かすたびに何度も引っかかる。
―――幼い頃。
あの瞳を、見ていた気がした。
しかし。
思い出そうとするたび、記憶に薄い膜がかかったように、映像が消えていく。
「......フレーダー」
彼の名を呼ぶ。
声は届かない。
返事もない。
「私、ちゃんと行く」
弱い声。
だがその中には、明確に強い意思が込められている。
“お前なら、救える”
その意味は、まだ分からない。
しかし。
それが、今の自分に与えられた“役割”なのだと、なんとなく感じていた。
「......役割だからじゃない」
咲は、手に持ったままのカードを見つめる。
顔のないジョーカー。
中央に描かれたその道化は、笑うでもなく怒るでもなく、ただ顔を黒く塗りつぶされている。
それはまるで。
意図的に潰されているようにも思えた。
「私がそうしたいから、行くの」
その言葉だけを置き、咲は不思議の国へと向かう。
境界の空には、もう何も飛んでいない。
ここからは。
何に守られるわけでもなく、咲の意思で進むページだった。
境界は、確かにそこにあった。
揺らぐ光。
踏み出せば、次の世界へ繋がるはずの場所。
この先に、不思議の国がある。
あの曖昧で、柔らかな世界。
境界を越え、霧を抜けた先に、会いたかった存在がいるはずだ。
踏み出しかけた足が、ぴたりと止まった。
咲の胸が跳ねる。
期待。
歓喜。
そこから来るものではなかった。
「......え......」
境界から滲み出る気配に、強烈な違和感が混じっている。
咲の呼吸が浅くなる。
何か、違う。
咲は、無理やり大きく息を吸った。
―――空気が、重い。
咲は境界を抜け、不思議の国へ足を踏み入れた。
まず見えたのは、霧の濃い、曖昧なあの森。
それなのに。
胸に浮かんだのは、懐かしさではなかった。
ここは最初に訪れた見覚えのある景色で、自分が再会したい存在が、そこから現れるはずだった。
―――静かすぎる。
ギ......ギギ......ッと、歯車の軋む音。
どこかで紙を裂くような気配。
なのに。
“案内人”がいない。
境界のすぐ先。
彼が立っているはずの場所に、あの姿がない。
赤と黒のジェスター衣装。
白塗りの肌。
両頬にスペードとクローバーのマーク。
大きくて赤い垂れ目。
彼が最初に、こちらの顔を覗き込むように現れた場所。
それが今、演者のいない舞台のように、不自然に空いている。
咲は視線を巡らせる。
いない。
「......フー―――」
名前を呼びかけて、飲み込む。
視線の先。
足元に裂け目が走っていた。
明らかに意図して、壊したような痕。
裂けた地面から、古いインクのような香りが充満している。
―――まるで。
書きかけの物語を、何者かが壊しているようだった。
不思議の国は、こんな姿ではなかった。
人の思考を受け止めるような、“余白”があったはず。
しかし、今は整えられていない。
むしろ荒らされている。
余白が埋め尽くされ、整理できないまま、滲むインクに溺れ、もがくように。
その時。
遠くで、何かが崩れる音がした。
咲は視線を上げる。
前に来た時には、気づかなかった。
霧の奥。
尖った屋根らしきシルエットが、森から突き抜けるように見えている。
城だ。
以前は、そこに行かなかった。
胸が、ざわつく。
自分の鼓動が、やけにうるさく鼓膜へと響いている。
理由は分からない。
何が起こっているのか。
あそこに何があるのか。
まだ目で見たわけではない。
けれど。
あの場所に行くように、この胸が訴えている。
そして咲には、この世界が誰かを待っているように見えていた。
それが誰なのか、咲はもう知っている気がした。
道を示し。
居場所を与え。
そして、別の世界へと送り出す者。
迎えがないのなら、こちらから行くしかない。
自分はもう、ただ案内されてついていくだけの、以前の自分ではない。
咲は歩き出す。
足は震えている。
怖くないわけではない。
それでも、戻るという選択肢は浮かばなかった。
壊れかけた、不思議の国の奥へ。
迎えはない。
案内はされない。
だから、行く。
かつて道を示していた、案内人を探して。
【最終章 真・案内人編 - 第1話「その先へ」- 完 -】
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