序章 - 第2話「案内人」
「キミ」
また違う方向から、あの声がした。
そして。
ゆっくりと、影は近づいてきた。
徐々に輪郭が露わになる。
足音は、しなかった。
近づいてきているはずなのに、草を踏む音も、衣擦れの音もない。
ただ、霧がその影のために道を空けるように、左右へはけていく。
まるで、最初からそこにいたものが、ようやく見える形を取った。
そんな感じだった。
赤と黒のジェスター衣装。
白塗りの肌。
両頬に、スペードと、クローバーのマーク。
大きくて、赤い垂れ目が、咲をじっと見ている。
人の形はしている。
けれど、普通の人間ではない。
咲は、そう思った。
顔に浮かぶ笑みは優しそうにも見える。
でも、その目は笑っていない。
大きく見開かれた赤い瞳は、咲を見ているようで、咲の奥にある何かを見ているようだった。
―――そういえば。
さっき、空から降ってきたトランプも、赤と黒のジェスターだった。
思わず、胸ポケットのジョーカーを確認する。
当たり前だが、顔はないまま。
目の前のジェスターは、咲が持っているジョーカーを見た。
大きく見開かれた目は、そのまま。
けれど、小さな赤い瞳孔だけが、ほんのわずかに揺れた。
笑っているような口元は変わらない。
それなのに、一瞬だけ、表情に影が差した気がした。
数秒、カードを見つめたのち。
男は、こちらに視線を戻す。
そして、顔を覗き込むような姿勢で言った。
「迷子だネ」
問いかけは柔らかい。
責めるでも、急かすでもない。
ただ、その声には、あまり感情がこもっていないようにも感じる。
「迷子......?」
ジェスターは、体勢を戻す。
「ここはネ、迷子になった人が来るんだヨ」
わずかな間が空く。
男は言葉を重ねた。
「ジンセイのネ」
軽い冗談みたいな言い方だった。
でも、笑えなかった。
知らないはずのことを、この男は知っているような素振りを見せた。
名前も、仕事も、何も話していない。
それなのに、目の前の男は、咲の状況を知っているようだった。
でも、覚えがありすぎるのは事実。
ついさっきまで、転職を考えていた。
それだけなら、まだ迷子じゃないかもしれない。
しかし。
なんの目標もなく、ただ、明日をどうにかするためだけの思考でいっぱいだった。
確かに、人生の迷子だ。
「マイハ、案内人だヨ」
「キミハ、選ばれタ」
言葉がやや途切れるのは、きっとこの男の癖なのだろう。
「私が、何に選ばれたの......?」
男は、口角だけを上げて言った。
「この世界ノ、続きを作る人、だヨ」
こちらの心情など関係なしに、男は淡々と話を進めていく。
「......意味、わかんない」
さっきから、何が起こっているのだろう。
仕事帰りに拾ったトランプ。
そこから、急に真っ暗な世界に落とされて。
暗闇を彷徨った果てに、不審なこの男に出会い。
今こうして、御伽話のような状況に立たされている。
整理が、追いつかない。
「狭間へようこソ」
変わらない表情。
変わらないトーン。
霧の中で、目の前のジェスターだけが、物語という舞台の上に立っているようだった。
観客はいない。
拍手もない。
それでも、男は見えない誰かへ向けるように、優雅に片足を引いた。
そして、演者のような振る舞いで一礼をした。
「マイハ、フール」
歯を見せない独特の笑みを向ける。
「この世界ノ、案内人サ」
【序章 - 第2話「案内人」 - 完 -】
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