序章 - 第3話「選択」
「フール?」
咲が名前を口にした瞬間。
小さな赤い瞳孔が、ほんの少しだけ揺れた。
「そうだヨ」
嬉しそうにも、誇らしげにも見えない。
その反応が、なぜか妙に印象に残る。
周囲を見回すと、少しだけ霧が晴れていた。
歪んだ木々。
どこへ続いているのか分からない道ばかりが目に入る。
歩いたはずなのに、同じ場所に戻ってきたような、そんな足元。
不安が、じわりと広がった。
そんな咲の様子をじっと見ていたフールは、ようやく口を開く。
「ここハ......」
「迷った人ガ、最初に来る場所だヨ」
彼の言う“ここ”とは、最初に口にしていた“狭間”のことなのだろう。
「でモ」
「帰る人ハ、少なイ」
変わらず、淡々とした口調で続ける。
声音は優しい。
なのに、告げられた事実だけが、静かに胸の奥へ沈んでいく。
「......帰れないの?」
問い返す。
無意識に声は震え、不安や怒りといった感情が、言葉にのる。
「急にこんな世界に落とされて、わけわからない物語の続きを作る人に選ばれて、挙句の果てには、帰れない?」
フールは、首を横に振ることも、縦に振ることもしなかった。
「......マイは答えを決めなイ」
「選ぶのハ、キミだかラ」
その言葉に、小さく心臓が跳ねる。
見上げると、薄ら笑いを張り付けたままのフールの顔。
それが、余計にイライラした。
無責任、という言葉が頭に浮かんだ。
きっと、今のこの男のためにある言葉だ。
しかし。
感情とは別に、フールの言葉は静かに胸を刺していた。
選ぶ。
その響きが、咲自身にやけに重く感じられた。
今の咲にとっても。
さっきまで路頭に迷っていた咲にとっても。
咲は、それ以上何も言えなかった。
しばらくして。
ふと、思う。
今はこの男がいなければ、人生どころかこの得体の知れない世界でも本格的に迷子になる。
そうなれば、迷子どころか遭難だ。
正直、まだ信頼するには早い。
でも。
フールは少なからず、責めない、急かさない、置いていかない。
なら、ほんの少しだけ。
まずは、知るところから始めるべきだ。
「......ねぇ」
話しかけると、フールは視線だけで反応を示した。
「さっきからあなたが言ってる“マイ”って、自分のこと?」
フールは、口角をわずかに上げる。
「そうだヨ」
「マイハ、トランプから生まれタ」
フールはどこからか、トランプを取り出す。
ポケットから取り出したようには見えなかった。
まるで手品。
しかし、明らかに何もない空間から出したように見えた。
「人間ハ、マイ達を1“枚”、2“枚”って数えル」
フールは空中でトランプを操った。
カードが均等な間隔で旋回するように舞う。
うねるような動きをしたり、輪になったり、またうねる。
明らかに、手品を越えた動きをしていた。
やはり、人間ではないらしい。
今までの常識で考えていた頭が、ようやく、本当に異世界に来てしまったのだと理解し始めていた。
「歩く時は言っテ」
「絶対にネ」
忠告としての響き。
「急にいなくなるト、大変だかラ」
そう穏やかに告げられる。
その「大変」が、どういう意味を持つのか判断がつかないまま、フールはくるりと背を向けた。
「進むなラ、こっチ」
「戻るなラ、あっチ」
赤い衣装が霧の中で揺れる。
その背中を見ていると、立ち止まっている方が危険な気がして、咲は一歩踏み出してしまう。
―――進む、方向へ。
「あ......」
踏み出してから気づく。
戻る、という選択肢が、自分の中で薄いことに。
「......よかっタ」
小さい声。
「迷子は動いたほうがいイ」
歯を見せない微笑みで、フールは言った。
その言葉が助言なのか確認なのか分からないまま。
咲は、霧の奥へと歩き出した。
【序章 - 第3話「選択」 - 完 -】
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