序章 - 第4話「狭間の先」
気づけば足元ははっきりと見えていて、道も、曲がり角も、霧の濃さも、見分けられるようになっていた。
もう、迷うほどではない。
ここまで来る間、何度も同じような景色を見たはずなのに、あの真っ暗な世界で感じた“戻れる気がしない”という感覚だけは、確かに残っていた。
フールは、少し前を歩いていた。
振り返ることはあっても、立ち止まることはない。
まるで、咲がついてくるのを当然だと思っているかのように。
何度か、声をかけようとした。
今どこに向かっているのか。
本当に帰る道はあるのか。
あの真っ暗な場所は、何だったのか。
聞きたいことは、いくつもある。
けれど。
フールの背中を見るたび、言葉は喉の奥で止まり、引き返していく。
聞けば、何かが決まってしまう。
そんな気がした。
道が広くなり、開けた場所に出たところで、フールは初めて足を止めた。
赤い衣装が揺れ、咲を振り返る。
「あそこだヨ」
そう言われて彼の指差す方向を見る。
「......え?」
そこには、さっきまでと変わらない景色が広がっているだけだった。
特別な建物があるわけでも、目印になるものがあるわけでもない。
ただ、不思議と静かだった。
音が少ない。
風もない。
霧も、もうほとんどない。
それなのに。
なぜか、安心は来なかった。
霧が晴れたのなら、普通は見通しが良くなるはずだ。
進む先も、戻る道も、今よりはっきり見えるはずだ。
でも、そうじゃない。
視界が開ければ開けるほど、自分がどこに立っているのか分からなくなる。
目に映るものは増えているのに、頼れるものは、減っていくような感覚だった。
「この先はネ」
フールは言葉を選ぶように、ほんの一瞬だけ間を置いた。
「道が分かれル」
そう続けてから、彼はゆっくりと咲を見る。
「どっちモ、間違いじゃなイ」
逃げ場のない距離ではないのに、なぜか目を逸らすという選択肢が浮かばない。
「でもネ」
また、一拍の間が空く。
「戻る人、あんまりいなイ」
理由を聞く前に、フールは口を開いた。
「怖いかラ、じゃなイ」
「分からなくなるからでもなイ」
淡々とした声。
感情を含まないはずなのに、胸の奥がざわつく。
「進んだ方ガ、楽ダ」
楽。
その言葉が、ひどく曖昧で。
だからこそ怖かった。
「マイハ、案内役ダ」
「だかラ、ここまでは連れて来れタ」
フールは、まるで確認するように言う。
ここまで、という言い方が引っかかる。
「この先ハ......」
言いかけて、フールは言葉を切った。
そして。
今までで一番近い距離まで、半歩だけ寄ってくる。
近い。
ただそれだけの事実が、やけに意識に残る。
「......選ぶんダ」
「マイハ、止めなイ」
囁くような声だった。
止めないと言いながら、彼の視線がごくわずかに揺れた気がした。
「......戻る道」
ほんの一瞬視線が外れ、また戻る。
「覚えてル?」
その問いに、なぜか、すぐ答えが出ない。
覚えているはずだった。
なのに、思い出そうとすると、霧がかかったみたいに曖昧になる。
顔をぶつけた痛み。
暗闇の中で伸ばした手。
木の質感。
最初に開けたドア。
それらは覚えている。
なのに。
そこへ戻るためにどう歩けばいいのか。
何歩進んだのか。
どの角を曲がったのか。
肝心な部分だけが、指の隙間からこぼれるように抜け落ちていた。
胸ポケットの中で、カードが静かに熱を持った気がした。
まるで、戻る道を思い出すなとでも言うように。
引き始めていた不安の波が、またゆっくりと押し寄せてきた。
沈黙が落ちる。
長くも短くもない、逃げるには遅い沈黙。
フールは、何も言わない。
手も差し出さない。
ただ、待っている。
その意味が、案内人だからなのか、それとも。
考えきる前に、胸の奥で、何かが静かに音を立てた。
―――ここが、境目だと、わかってしまった。
【序章 - 第4話「狭間の先」 - 完 -】
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