序章 - 最終話「捲られたページ」
足元の感覚が、少しだけ変わった。
地面が硬いとか、柔らかいとか、そういう話じゃない。
ただ。
ここから先は、踏み出した分だけ戻りにくくなる。
そんな予感が、理由もなく胸に広がっていた。
フールは目の前に立っている。
これまでで一番近い距離なのに、手は届かない。
届かせていない、と言ったほうが正しいのかもしれない。
「もう少しだヨ」
後ろで手を組んだまま、彼は言った。
「道ハ、二つあル」
「どっちモ、進めル」
それから、咲を見る。
「でもネ」
いつもの、あの間。
「進む意味ハ、違ウ」
意味。
その言葉が、やけに引っかかる。
ただ、不安だった。
自分で一歩踏み出したくせに、まだ、なんの心の準備もできていなかった。
「......早くしないト」
フールは後方に視線を向ける。
「戻る道ハ、薄くなル」
淡々とした声。
責めるでも、脅すでもない。
「分からなくなる前ニ、選んデ」
選ぶ。
また、その言葉。
「マイハ......」
ほんの一瞬だけ、言葉が途切れる。
「......案内人」
それは確認のようで、言い聞かせのようでもあった。
彼は動かない。
手も差し出さない。
咲に委ねるように、ただ、立っている。
静かすぎて、自分の呼吸の音がやけに大きく感じられる。
進めば、楽だと言っていた。
戻る人は、少ないとも言っていた。
でも、戻れないとは言っていない。
「......怖イ?」
突然、フールがそう聞いた。
声は優しい。
否定を前提にしていない問いだった。
そんなに自分は、わかりやすい顔をしていたのだろうか。
答えを探している間に、彼は続ける。
「怖いノ、悪いことじゃなイ」
「......でもネ」
視線が、まっすぐに戻る。
「選ばないノ、困ル」
その言葉が、胸に落ちた。
“選ばない”。
その選択肢が用意されていないことを、はっきりと理解した。
フールは、後ろで組んでいた腕を解き、片手を伸ばす。
白く塗られていない指先が、ゆっくりと右の道を指した。
「右の道ハ、甘い夢」
そのまま、視線と指先をずらす。
「左の道ハ、深い森」
そしてこちらを向くと、出会った時の覗き込むようなポーズで、視線を合わせる。
「......さァ」
「どっちニ、行ク?」
進むことが当たり前だとでもいうような調子。
フールは、一歩も動かない。
それでも、確かに待っている。
「......私は」
咲は、すぐに答えが出せなかった。
どちらの道を見ればいいのか、わからない。
思わず、下を向く。
フールは数拍置いて、進んできた方向を見る。
石畳は、まだ形を保っている。
歪んだ木々も、道を閉ざしてはいない。
まだ、帰る道はある。
「......戻ル」
「それだっテ、選択ダ」
表情は、見えない。
声は、いつもの淡々とした、変わらないトーン。
咲は視線を目の前の景色に移す。
確かにこの世界は奇妙で、これから起こることは、一切想像がつかない。
真っ暗な世界。
濃い霧。
歪んだ木々。
すでに不穏な要素しか見当たらない。
ここから先の未知なる世界に、小指の先ほどの平穏ですら存在するのか怪しい。
なのに。
戻りたい、といえば、嘘になる。
自分の中で、“戻る”という選択の薄さが、より鮮明になった。
「......右」
なぜそちらの道を選んだのか、分からない。
でも。
胸ポケットのジョーカーが、“こっち”と告げた、そんな気がした。
「右、だネ」
フールはくるりと背を向ける。
再確認も、励ましもない。
「......ルールハ、ちゃんと守ってル」
小さく呟いた声。
自分に言い聞かせているようでもあり、咲に聞かせているようでもあった。
首だけを軽くこちらに向けると、口角だけを上げる。
「安心しテ、ついてきテ」
そしてまた進む方へ向き直り、歩き出した。
―――ここから、歪んだ世界へ渡り歩く、咲の物語が始まった。
【序章 最終話 - 完 -】
→第1章 案内人編 第1話「彼の世界」へ