第1章 案内人編 - 第1話「変化」
霧は、もうほとんど残っていなかった。
気づけば足元ははっきりしていて、道も迷うほど複雑ではない。
あれだけ歪んでいた景色が、少しだけ整って見える。
それが不思議で、同時に少し怖かった。
フールは、少し後ろを歩いている。
すぐ隣ではない。
でも、離れてもいない。
「ここハ、マイの世界」
見上げると、いつの間にか彼が前に立っていた。
大きな目が、じっと咲を見ている。
「疲れてなイ?」
ふいに、そんなことを聞かれた。
これまで一度も、体調を気にされたことはなかった気がする。
フールは歩調を合わせるように、自然に距離を縮めた。
「ここはネ」
「不思議の国だヨ」
不思議の国。
幼い頃、絵本で読んだことがある。
けれど、目の前に広がる世界は、絵本とはまるで違っていた。
可愛い要素は、ない。
ねじれた木々が続くだけ。
白いウサギも、花も、楽しげな生き物もいない。
生き物という概念だけが、抜け落ちたような森だった。
「この国ハ、マイしかいなイ」
咲が聞く前に、フールは告げた。
「物語ハ、人間の思考デ形が変わル」
「この世界ハ、歪みから生まれタ」
歪み。
良くないものだということだけは、すぐに分かった。
歩きながら、フールはぽつぽつと教えてくれた。
最初に落ちた真っ暗な場所のこと。
この歪んだ不思議の国のこと。
そして、自分が案内人であること。
しばらく進むと、景色が少し変わった。
ねじれた木に、大きな時計がぶら下がっている。
針は右へ回ったかと思えば、次の瞬間には左へ戻る。
時計としての仕事を、完全に放棄していた。
「......ここって、時間の概念はあるの?」
「気分だヨ」
知ってた。
さらに進むと、小さな休憩小屋や、お茶会用のテーブルが見えてきた。
不自然に並べられたティーセット。
誰もいない椅子。
少しだけ、咲の知っている不思議の国に近づいた気がした。
「......ここハ」
「不思議の国ノ、奥だヨ」
奥。
「奥に来る人ハ、少なイ」
誇るでも、警戒するでもない声。
ただ、事実を言っているだけだった。
「少ないの?」
帰る人は少ないと、さっき言っていた。
それなのに、ここへ来る人も少ない。
フールは、くるりと咲のほうを向く。
「マイのこト、怖がル」
「不気味だっテ」
格好は、ジェスター。
人間界のどこかにいれば、ぎりぎり大道芸人で通るかもしれない。
けれど、声も、表情も、雰囲気も。
どこか人形めいている。
先ほどの分かれ道を思い返す。
右は、不思議の国。
左は、深い森。
どう考えても、深い森の方が不気味だと思った。
「......深い森の方が怖いと思うけどなぁ」
それを聞いたフールの目が、わずかに揺れた。
もちろん、まだ不安はある。
けれど。
恐怖は、もうなかった。
「......キミハ、ここまで来タ」
「だかラ......」
ほんの一瞬、言葉が途切れる。
「マイ、ちゃんと見てル」
見ている。
それは監視ではなかった。
確認でもない。
ただ、咲の歩幅も、迷いも、不安も。
全部、置いていかないように見ている。
そんな響きだった。
歩いていると、ふいに足元の段差に気づくのが遅れた。
「わっ......」
つまずきかけた瞬間、腕にそっと触れられる。
強くはない。
引き寄せられるほどでもない。
ただ、倒れないために必要な分だけ。
「......ゆっくりデ、いいヨ」
そのまま、すぐに手は離された。
触れた時間は一瞬だったのに、感覚だけが残る。
「急がなくていイ」
「ここハ、逃げなイ」
その言葉に、思わず足を止めた。
逃げない。
それは、逃げられない、とは違う。
フールはこちらを見て、いつものように歯を見せない微笑みを浮かべる。
「キミが選んだ道ダ」
「だかラ、マイハ......」
少しだけ、声が低くなる。
「キミの歩幅ニ、合わせル」
その言葉が、胸の奥に静かに染み込んだ。
ここまでずっと、咲が合わせてきたと思っていた。
でも、今。
初めて、合わせてもらっているのだと感じた。
「怖くなったラ、言っテ」
「迷ってモ、言っテ」
そう言ってから、付け足すように彼は告げた。
「マイハ、離れないかラ」
約束のようで、当然の事実のような口調だった。
その言葉に、少しだけ不安が和らぐ。
また歩き出す。
「......あァ」
小さく、フールが息を吐いた。
「......首の、下」
「......奥ガ、変な感じダ」
声のトーンは変わっていない。
でも、その言葉の意味は、咲に向けられていた。
不思議の国は奇妙で、帰れる保証もない。
それでも。
今は、この歩幅、この距離、この声が――
甘いと感じてしまった自分を、否定できなかった。
【第1章 案内人編 - 第1話「変化」- 完 -】
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