第1章 案内人編 - 第2話「安心」
不思議の国の空は、いつの間にか夜に近づいていた。
いや。
不思議の国が、夜に擬態している、というべきかもしれない。
フールは、この世界の時間感覚について、“気分”と言っていた。
その言葉の通り、太陽が沈んだわけでも、月が昇ったわけでもない。
ただ、空の色だけが、静かに変わっていく。
フールは、相変わらず少し後ろを歩いていた。
触れない。
というより、意識して一定の距離を保っているようだった。
「寒くなっタ?」
そう聞かれて、初めて気づく。
確かに、空気が少し冷たい。
さっきまで歩いていたせいで気にならなかったけれど、指先がわずかに冷えている。
咲は、自分の手を握った。
「今......」
フールは歩調を落としながら言った。
「キミが思ってるよリ、長く歩いてル」
それは、責める言い方ではなかった。
むしろ、労わるみたいな声だった。
どのくらい歩いたのか、咲には分からない。
この世界には、時計があっても時計の役目をしていない。
空は気分で色を変える。
道は、進んでいるはずなのに、時々こちらを試すように似た景色を見せる。
足が重い。
気を張り続けていたせいか、頭も鈍く痛んでいた。
それに気づいた途端。
疲れが、一気に押し寄せた。
そのタイミングで、小さな建物が見えてくる。
扉には鍵がなかった。
フールが触れるより先に、扉は小さく軋んで開いた。
まるで、中に入ることを最初から知っていたみたいに。
フールは先に入らず、咲が入るのを待っていた。
中に入ると、灯りが一つだけ点いていた。
天井から吊るされたランプ。
丸いテーブル。
二脚の椅子。
奥には、小さな寝台。
外から見たよりも、中は少し広く感じた。
「休もうカ」
拒否する理由はなかった。
咲が椅子に腰を下ろすと、体から力が抜けた。
自分で思っていたより、ずっと疲れていたらしい。
フールは、向かいの椅子には座らなかった。
「......座らないの?」
咲は、フールを見上げる。
「......見てるほうガ、先」
また、見ている。
それはもう、少しだけ聞き慣れた言葉になっていた。
しかし、ずっと見ていられるのも、なかなか落ち着かない。
「不気味だって言われるの、そういうところじゃない?」
責めているわけではない。
そう言ってしまいたくなるくらい、見られているから。
咲は、ふふっと笑った。
すると、フールの目が揺れた。
「笑っタ?」
表情も、声のトーンも変わらない。
それなのに、なぜか“驚いている”のだと分かった。
「......不思議ダ」
ふいに、彼が言う。
「ここまで来る人ハ、少なイ」
「来てモ、落ち着かなイ」
言葉を選びながら、視線を向けてくる。
「キミハ......」
一瞬、間が空く。
「落ち着いてル」
それは評価のようで、確認のようでもあった。
「......笑ってル」
数拍、間を空ける。
何かを考えているかのような、わずかな沈黙。
そして、口を開いた。
「変」
咲は、また笑う。
「いや、フールがそれ言うの?」
フールの赤い目が、また揺れた。
「マイノ、名前......」
「......初めテ、呼ばれタ」
表情も声も変わらないのに、やや困惑しているように見えた。
でも、どこか満足そうにも聞こえた。
フールは視線を下げ、胸元で拳を握っている。
「確かニ、マイ、変ダ」
「じゃあ、変な者同士だね」
そんなやりとりをして、しばらく経った。
「もウ、寝ていいヨ」
「マイハ、寝ないかラ」
不思議の国も、住人も、寝ない。
彼はそう付け加えた。
「......住人って言ってモ」
「マイしカ、いないけどネ」
冗談のような言い方だった。
けれど。
咲は笑えなかった。
この国には、彼しかいない。
世界があるのに、生きているものは彼しかいない。
その事実が、急に胸に引っかかった。
「......寂しくないの?」
フールは、少しだけ首を傾ける。
「サビ、シイ?」
言葉の意味を確かめるような言い方だった。
「ひとりで、寂しくない?」
フールは答えなかった。
その代わり、咲を見つめる。
しばらくして、歯を見せない笑みを浮かべた。
「マイハ、案内人だかラ」
答えになっていない。
でも、今の彼にとっては、それが答えなのだろうと思った。
疲れからか、自然とまぶたが下がり、奥の寝台へ横になる。
「......変なことしないよね?」
フールは、わずかに首を傾げた。
「......夢の中に入るのハ、変?」
「絶対やめて」
彼なら、確かにやりそうだ。
だからこそ、夢の中まで見ていてほしくはない。
でも。
不思議と嫌な感覚は湧かなかった。
少しずつ、この距離に安心を覚え始めているのかもしれない。
そして、意識を手放す直前。
柔らかな布が、かけられたような気がした。
【第1章 案内人編 - 第2話「安心」- 完 -】
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