第1章 案内人編 - 第3話「理由」
朝なのか、夜なのか。
体感時間ですら、曖昧になってきていた。
思いのほか、寝てしまったみたいだ。
寝すぎた時の気だるさが、起こした身体にのしかかってくる。
元いた世界であれば、身支度を整えて、朝食を食べて。
それから、重い足を引きずるように仕事へ向かう。
そんな朝が、当たり前だった。
なのに。
この世界では、その必要がまるでない。
概念すら、ない。
お腹も空かない。
喉も渇かない。
体感では丸一日以上経っている気がするのに、身体がベタつくこともない。
まるで、咲を取り巻く“生活”というものだけが、綺麗に抜き取られてしまったみたいだった。
部屋の隅には、フールが立っていた。
椅子には座らず、壁にも寄りかからず。
まるで、夜という時間の間ずっと、そこに置かれていた人形みたいに。
「......本当に寝ないんだ」
そう呟くと、フールは首を傾げた。
「寝ないヨ」
当然のことのように言われる。
当然ではないはずなのに、この世界ではそれが正しいのだろう。
そして、気づけばまた歩いている。
不思議の国では、それが当たり前のように受け入れられてしまう。
フールは、すぐそばにいる。
近すぎず、遠すぎず。
手を伸ばせば届く距離なのに、触れない。
触れようと思えば触れられる。
でも、そうしない。
その距離が、心地よくもあり。
少しだけ、寂しくも感じた。
「昨日ネ」
ふいに、彼が口を開いた。
「キミハ、よく眠ってタ」
その言葉に、また少しだけ安心する。
眠っていたことを、誰かが知っている。
ただそれだけのことが、こんなにも胸を軽くするとは思わなかった。
「......夢の中には?」
思わず聞くと、フールは瞬きもしないまま答えた。
「入ってなイ」
ホッと胸をなで下ろす。
「......夢にハ、入ってないけド」
「......けど?」
フールは、口角だけを上げてこちらを見る。
「入り口には、立ったヨ」
「入り口」
思わず咲は復唱した。
夢の入り口とは何だ。
フールの表情は変わらない。
「夢にハ、入ってなイ」
それから、淡々と続けた。
「キミの中にハ、入っタ」
「誤解を招く言い方やめて!?」
もちろん、そっちではないことは分かる。
分かるけれど、言い方というものがある。
フールは、少しだけ真面目なトーンになる。
「この国ハ、住人が欲しイ」
一瞬、咲は固まった。
「この国ハ、楽しい思い出ト、夢を食べル」
「ここがいいっテ、思わせル」
ぞわりと、背筋が冷える。
「だかラ、マイが追い払っタ」
つまり。
不思議の国が咲の夢に入り込み、ここを居場所だと思わせようとした。
その前に、フールが夢の入り口に立って、それを追い払った。
そういうことだった。
「迷子はネ」
「眠っている時ガ、一番無防備ダ」
責めるでもなく。
脅すでもなく。
ただ、事実を述べる声だった。
「でモ」
フールは、一拍置いた。
「キミは、大丈夫ダ」
“大丈夫”。
その言葉は、少しだけ重かった。
守られているようにも聞こえる。
でも同時に、何かを見極められているようにも聞こえた。
そして。
別れが近づいているみたいで、少しだけ寂しく感じた。
歩きながら、足元を見る。
道は、ある。
けれど、戻る方向はもう、はっきりしなかった。
「不思議の国はネ」
フールは、前を見たまま言う。
「選ばれた人にハ、優しイ」
選ばれた。
その言葉に、胸が鳴る。
最初にフールから“選ばれた”と言われた時には、嫌な気持ちにしかならなかった。
勝手に決められたようで。
知らない役割を押しつけられたようで。
でも、今。
ほんの少しだけ。
胸を高鳴らせている自分がいた。
夢の無断飲食は、優しさではない気もするけれど。
「でモ」
彼は言葉を重ねた。
「優しさの形ハ」
「選び方デ、変わル」
ここで、彼は振り返った。
「キミハ、もう分かってると思ウ」
逃げ道がない距離ではない。
でも、逃げ場のない問いだった。
「キミハ、ちゃんと自分の意思デ」
彼は、まっすぐに咲を見る。
「ここニ、居場所を作り始めてル」
その言葉に、胸の奥が少し温かくなる。
同時に。
少しだけ、怖くなる。
常識も、時間も、命の気配すら曖昧な、歪んだ不思議の国だ。
それなのに。
この場所に、少しずつ安心している自分がいる。
「それハ、悪いことじゃないヨ」
フールはすぐに言葉を続けた。
「......でもネ」
声が、ほんの少しだけ低くなる。
「理由ハ、大事」
まるで、何か重大な答えを求める空気だった。
「ここにいる理由ガ、この国なのカ」
フールは、周りを見る。
不思議の国という世界を、見渡すような視線。
「......それとモ」
言葉を切る。
わずかな間を置いて、フールは咲を見た。
そして、歯を見せないまま、口角だけを上げる。
「マイ、なのカ」
問い詰める調子ではない。
答えを急かす気配もない。
ただ。
ここでどう答えるかで、この先が変わる。
良い方向へも、悪い方向へも。
ここが、彼との境界だった。
【第1章 案内人編 - 第3話「理由」- 完 -】
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