第1章 案内人編 - 第4話「役割」
空気は、すっかり変わっていた。
さっきまで冗談のような話をしていた、柔らかい空気ではない。
心なしか、世界までもが咲の答えを待っているかのように、停止しているようにも思えた。
咲は、フールを見る。
彼は、じっとこちらを見ているままだ。
相変わらず、表情は変わらない。
瞬きもしない。
いつもの、大きな赤い目。
白塗りの顔。
変わらない笑み。
人形のような、感情の読めない表情。
しかし。
いつもの目の雰囲気と、ほんの少しだけ違う。
“欲”と呼ぶにはまだ遠く。
無心と呼ぶには、熱がある。
この世界の空みたいな、曖昧な目。
何かを期待しているようにも見える。
しかし、本人がそれを自覚しているのかは、分からない。
「フール......?」
「...選んデ」
フールは、動かない。
急かしてはいない。
なのに。
少しだけ、圧がある気がした。
露骨ではない。
初対面の相手だったら、気づかない。
しかし。
彼と過ごした一日という時間が、彼の変化に気づくための材料になっていた。
咲は、すぐには答えられなかった。
“ここが、不思議の国だから”。
そう言えば、嘘になる。
歪んだ木々も、狂った時計も、誰もいないお茶会も。
それらに惹かれているわけではない。
では。
“フールがいるから”。
そう言いそうになったが、言葉を飲み込んだ。
彼は、優しい。
少なくとも、自分を置いていかない。
眠っている間も、夢の入り口で不思議の国を追い払ってくれた。
その事実は、確かに胸を温かくしていた。
しかし。
ここで、“フールがいるから”と答えたら。
何かが、決定的に変わってしまう気がした。
それは、きっと甘い。
安心できる。
彼は自分を見てくれる。
置いていかない。
離れないと言ってくれる。
でも。
その甘さは、足を止めるものでもある。
フールは、案内人だ。
次の物語へ、進ませる人。
そうであってほしいと、思った。
「......ここが、好きだからじゃない」
咲がそう言うと、フールの瞳孔が、ほんのわずかに揺れた。
「不思議の国は、綺麗だけど怖い」
口にしてから、その言葉が、彼にとって少しだけ残酷だったかもしれないと思う。
でも、フールは否定しなかった。
「ここにいると、楽だと思う。戻ることも、考えなくてよくなる気がする」
フールは、ただ聞いている。
瞬きもせず。
口角だけを上げたまま。
「でも、それはたぶん......私が選んだ安心じゃない」
咲は、胸元に手を当てた。
顔のないジョーカーが、そこにある。
「私がここにいる理由は、この国じゃない」
フールの手が、ほんの少しだけ動いた。
伸ばしかけたようにも見えた。
けれど、その指先は途中で止まる。
咲は、まっすぐに彼を見た。
「フールが、導いてくれるから」
その瞬間。
止まっていたような空気が、かすかに揺れた。
遠くで、壊れた時計の針が鳴る。
右へ進んだのか、左へ戻ったのかは分からない。
ただ、この世界が、再び動き出したような気がした。
「......そっカ」
フールの声は、ひどく小さかった。
「フールが案内人だから。私をここに留めるんじゃなくて、次に進ませてくれるって思ったから」
フールは何も言わなかった。
笑っている。
いつもと同じ、歯を見せない笑み。
けれど。
さっきまで瞳の奥にあった曖昧な熱が、ゆっくりと薄れていくのが分かった。
消えたわけではない。
ただ、奥へ沈んだ。
代わりに、別のものが浮かんでくる。
役割。
ルール。
彼が、彼であるための形。
フールは、ようやく一歩下がった。
その距離に、咲は少しだけ胸が痛んだ。
けれど。
同時に、息がしやすくなった。
「...マイハ、フール」
静かに、彼は言う。
「不思議の国ノ、案内人ダ」
その声には、さっきまでの迷いがなかった。
彼はゆっくりと片足を引く。
初めて会った時と同じ、演者のような一礼。
けれど。
今は、舞台の上の道化師ではなく。
道を示し、導く、案内人に見えた。
「だかラ、キミを送ル」
霧の奥で、見えない扉が開く音がした。
咲は、そちらを見る。
まだ何も見えない。
でも、確かに次のページがある。
フールは、くるりと背を向ける。
その背中には、少しだけ寂しさが滲んでいた。
「...行こウ」
短い言葉。
けれどそれは、咲を引き止めるためのものではなく―――
送り出すための、言葉だった。
【第1章 案内人編 - 第4話「役割」- 完 -】
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