第1章 案内人編 - 最終話「その先へ」
あれから、また少し歩いた。
初めて休んだときの小屋に似た家が、進んだ先にあり、またそこで休息をとった。
相変わらず、不思議の国の一日は、はっきりとした始まりがなかった。
それどころか、空が逆さまだったり、太陽と月が気まぐれに現れたりする。
気づけば周囲が少し明るくなっていて、ちゃんと眠っていたのかどうかも曖昧なまま、静かな時間が続いている。
「ん......」
ゆっくりと、目を開ける。
眩しくはない。
人間界の朝のように、煌々とした日差しはない。
なのに。
不思議と、不安にはならなかった。
フールは、少し離れた場所にいた。
近づこうと思えば近づける。
でも、わざわざそうしなくてもいい距離。
むしろ、今の彼には、その距離を保った方がいい気がした。
「よく眠れタ?」
変わらない表情。
「また、不思議の国から守ってくれたの?」
フールは、小さく首を振った。
「必要、なかっタ」
その声は穏やかで、いつも通りだった。
「キミハ、進むこト、選んダ」
「不思議の国、迷いがない人にハ、入れなイ」
咲は、昨日のフールとのやりとりを思い返した。
自分の意思で、不思議の国という居場所を拒絶し、進むことを選んだ。
あのやりとりがなければ、きっとまだ迷っていた。
不思議の国が、また夢に入ろうとしていただろう。
「......そっか」
安堵したのも束の間、別の感情が湧いた。
夢に入ってこられないということは、もう、この国に必要とされなくなったということ。
その事実が、誰かにそうされたわけでもないのに、別れを告げられているようで。
少し、寂しいと感じてしまった。
そんな咲の様子を見て、フールは初めて動き出す。
「見テ」
フールは、窓の外を指さす。
「わっ......」
休息をとる前には気づかなかったが、森の様子が今までと違っていた。
ねじれた木々ばかりだった景色は、まっすぐに伸びる若々しい木々へと変わっていっている。
そして、曖昧な空の色に対して、その道だけが妙に明るい。
まるで、すでにそこからが、別のページであるかのように。
「ここはネ」
「終点の前ノ、休息地だヨ」
休息地。
それを「通過点」だと、自然に理解できる言い方だった。
「キミハ......」
視線がやわらかく向けられる。
「自分の足デ、ちゃんト歩いてル」
褒めるようで、評価でもあった。
「......案内人としテ」
「安心、できル」
その言葉に、胸の奥が温かくなる。
必要以上に近づかれないことが、今は心地よかった。
一緒に、小屋の外に出る。
道は分かりやすく、霧も薄い。
「この国はネ」
「居場所ヲ、作ることもできル」
彼は、歩いてきた道を見つめている。
感慨なのか、未練なのか。
判別はつかなかった。
「......でモ」
数拍の間が空く。
「......戻る場所がある人ハ」
「ちゃんト、帰れル」
それは約束でも、誘いでもない。
ただの事実のように語られた。
彼は、咲の方へまっすぐ向く。
「キミが選んだのハ、“進む”だけド」
彼は、咲の少し後ろへ下がる。
“送り出す”位置だった。
「安全な道だかラ、マイハ......」
「最後まデ、案内するヨ」
その言葉に、重さはなかった。
束縛もない。
だから、安心して進むことを選べた。
あれから、少し歩いた。
すでに歪んだ木々はなくなり、若い木々ばかりが並んでいる。
石畳は、太陽のような光を受けて淡く反射し、木々の葉を照らしていた。
そして。
その先に、存在感のある分かれ道。
「......ここだヨ」
道の先を見ると、今までとは明らかに違う景色が広がっていた。
境界が曖昧な、別の物語へのゲート。
右は、暗い夜。
左は、まだ明るい夕暮れ。
「マイの案内ハ、ここまデ」
これが、本当に最後なのだと理解した。
咲は、お礼を伝えたかった。
同時に、謝りたかった。
ありがとう。
ここまで連れてきてくれて。
ごめんなさい。
フールの国を、否定するようなことを言って。
咲が、後ろにいるフールへ振り返ろうとした瞬間。
一瞬、強い風が吹いた。
「きゃっ......!」
思わず、身を屈める。
背中を押すような風。
それは。
この奇妙な世界に立つ前に吹いた、顔のないジョーカーを連れてきたあの風と同じだった。
―――もしかして。
風が止み、後ろを振り返る。
しかし。
彼はもう、そこにはいなかった。
“行ってらっしゃイ”。
言葉だけが、空から落ちてきた。
別れの言葉のはずなのに、帰ってくる前提の言葉にも聞こえた。
目頭が熱くなる。
咲は、空を見上げて、小さな声で呟いた。
「もし、戻って来られるなら......」
目頭に溜まった熱がこぼれないように、空を見上げたまま続ける。
「......また、会いにきても、いいかな」
当然、空は何も言わない。
「......進もう」
咲の姿が、夕暮れのゲートに溶けた。
自分で選んだ道。
ここから先は、守られたままではなく、選び続ける未来へ向かう。
「......マイノ、別の顔」
「......見せずに済んデ、よかっタ」
フールは木の上で、小さく息を吐いた。
「......時間、ないネ」
胸元の服をぎゅっと握る。
誰にも届かない声で、彼は言った。
「......キミガ」
「......最後のカード、ダ」
遠くで、烏の低い鳴き声が響いていた。
【第1章 不思議の国編 - 最終話「その先へ」- 完 -】
→第2章 与える者編 - 第1話「優しい人」へ